第1部【基調講演】

重松清氏 「子どもを書店に放り込め!」

 この1年間に、僕と女房で100何冊の本を買った。調べてみたら、半分をオンラインで買っていた。オンライン書店は便利で、楽だ。その魅力を素直に認めながら、「でもね。ちょっと」という気持ちがどこかにある。もしかしたら、3年後は100%、オンラインで買うようになっているかもしれないが、2000年秋の段階で、「せめて、子どもには本屋だよな」という気持ちがある。

 「本の学校」というシンポジウムを、鳥取県の米子市の今井書店が中心になってやっていると知って、最初から注目していた。僕は岡山県出身となっているが、オヤジが転勤族で、小学校3年生から5年生まで米子市にいた。今井書店には毎週のように行っていた。今、ものを書く商売をやっているが、その原点が今井書店にある。書店という場、その本屋さんという物理的な場所がすごく好きだった。オンラインは、その場をなくしてしまうものだ。もちろん場があれば、当然、距離や広さの制約が出てくる。それをなくすのがオンラインという画期的なシステムなのだが、それでもなお書店の持つ魅力について、思い出話をさせてください。

 ぼくが米子市にいたころ、今井書店は自転車で20分ぐらいのところにあった。毎週日曜日のお楽しみというのが、オフクロと一緒に米子の町に買い物に行く。自転車に乗って、まず今井書店の前でとまる。ぼくはオフクロに今井書店に放り込まれる。オフクロは商店街で買い物をする。朝10時ごろに今井書店に放り込まれて、ひたすら書店の中を歩き回る。書店にとっては迷惑な客だったかもしれないが、親にしてみれば、途中であきて、「帰る帰る」って言われるよりは、最初から本屋に放り込んでおけばいい。レコード屋は小学生が1人で入っていけるようなところではないし、スーパーも30分もあればいっぱいだ。何より誘拐というか、少しあぶないという気持ちが親にはある。本屋なら安心だという気持ちがある。本屋が一番子どもに悪い影響を与えないし、子どもが時間をつぶせるし、人の目がある。託児所代わりに使えたのだと思う。

 朝から今井書店に入る。最初は小学生が読める本のコーナーに行く。まず最初に感じるのが、壁一面の本の量。子どもの目線で見るとすごい。圧倒されるような量の感覚。これはオンライン書店では味わえない。そういうときに「帰りに1冊だけ買ってあげる」と言われる。その1冊を選ばなくてはいけない。そのときは必死だ。立ち読みして、その本を買おうと思ったら、すでに途中まで読んでしまっていて、もったいない。面白そうだと思ったら立ち読みできない。

 最初の30分で第1候補を決める。忘れないように棚から半分抜いて、目印にしておく。江戸川乱歩や怪盗ルパンシリーズ、名作コーナーなどから3、4冊ピックアップして、中身を見ずに、どうしようかとずっと考えていると、午前中はあっという間に終わってしまう。昼前、オフクロが迎えに来る。とりあえず休憩。メシを食った後、オフクロはまた、僕を今井書店に放り込む。そこから後半戦だ。

 午前中の予選を勝ち抜いた本の中から、ちょっと(中身を)知りたいと思って、目次を見てみよう、挿し絵を見てみようと選んでいって、ずっと立ちっぱなしだから、だんだんあきてくる。あきてくると、子どもコーナーから大人向けのコーナーにフラフラと遠征してみたくなる。壁の在庫がすごいと思い、大人の立ち読みしている中に割って入る。親がいなくて、1人で本屋で大人の中に入って、同じことをしているというのは、子ども心に一人前、大人っぽいなという気持ちだ。「このタイトルだったら読めるかもしれないな、ちょっと候補にしてみるかな」と寄り道して何か見つけられる。今度は雑誌コーナーに行ってみる。子どものコーナーからだんだん世界が広がっていく。

 5年生の終わりには転校したが、5年の2学期すぎから文庫本だ。ちょっと難しいけれど、文庫なら普通の本の1冊分で2冊買える。少しずつ本の世界で大人の本を買うようになった。けっして親がこの本がいいからと与えたわけではないし、新聞広告などで探しているわけではない。半日かけて、少し目に付いたものからめくってみて、だんだん大人の本に行くようになった。

 僕は、売れ線のミステリーを書けない作家として有名だが、それも今井書店の影響だ。4年生から乱歩の少年探偵団のシリーズを読んでいて、本物っぽい推理小説を読んでみようかなと思って、作家名は忘れたが、『黄色い部屋の秘密』という本を講談社の少年向けシリーズで買ってみた。読んでいったら、後半が落丁。オフクロと一緒に取り替えに行ったら、今井書店の店員さんが、この本を出版社に言って取り替えてもいいけれど、同じ値段の別の本と取り替えてもいいよ、と言ってくれた。『黄色い部屋の秘密』は暴かれてはいなかったが、半分読んだんだから、別な本にしてもらえば、1冊半読めるんじゃない。別な本にします、と選んだ本が『夕焼け番長』という不良マンガ2冊だった。番長ものはミステリーよりずっと面白い。そのままミステリーに興味が向かうことなく、今の僕になってしまった。

 今井書店のお兄さんが「別の本にしてもいいよ」と言う。そこが書店の持っている素晴らしさ、面白さだ。人間味のある客と店員の付き合いだとすごく感じる。乱歩などのシリーズものは、(在庫で)たいがい途中が抜けている。そういうときは、どうしたらいいか考える。妥協して別の本にするか、あくまでその本を注文するか、一生懸命に選択する。ある時、午前中に(候補として)半分抜いておいた本が、午後になって同年代の男の子に買われてしまって、くやしかったが、「こいつも好きなんだ」という同志意識がかすかに芽生えてきた。

 5年生になると、文庫本の乱歩に興味が出てくる。耽美的で表紙もいやらしっぽかったけれど、文庫なんだから、名作なんだから、とエクスキューズを自分でつけながらレジに持っていく。1人でいろんなことを考えて、選んで、背伸びしてみたり、妥協してみたり、がっかりしてみたり、わくわくしてみたり。そういう体験を、僕は今井書店という町の書店でできたというのは、幸せなことだったと思う。少なくとも書店に行くということに対して、変な気負いとか気後れを持たずに済んだということがうれしい。

 米子から山口県の小郡に引っ越した。町としてはあまり大きくないが、商店街に2軒の書店があった。中学になると、本も読まなくなるし、悪いことを覚えるようになる。1軒ははやっているA書店。もう1軒は、じいさんとばあさんがやっている、暗くじめじめした本屋だったが、僕はこちらが好きだった。もう時効だと思うし、本屋の皆さんには申し訳ないのですが、矢沢永吉とジョニー大倉がメンバーのロックバンド「キャロル」が書いた彼らの自伝があった。『暴力青春』という題で、新書版だった。「その本が欲しい。ワシは永ちゃんが好きだけん、この本は買っちゃいかん。永ちゃんに申し訳が立たん。万引きするしかないだろう」と。これは、僕なりの本に対するリスペクトというか、オマージュの証明として、「これは万引きするけんのー」と友達に言って、じいちゃんばあちゃんに悲しい思いをさせてはいけないと、A書店に行って、持って帰りました。持って帰りましたというか、万引きしました。ゴメンナサイ。

 それで2年後ぐらい、高校生になっていたが、矢沢永吉が『成り上がり』という本を出したときは、「永ちゃんが頑張っているんじゃけん、ワシも金払って買わなければいけん。万引きとかしとったらいけんぞ」と、A書店で買いました。万引きは良くないことです。しかし、万引きって、ある面で本という物と向き合っている行為だ。オンラインでは万引きはできないんですよ。非常につまらないことだ。万引きと立ち読みは、書店から見たら「バカヤロー」って話かもしれないけれど、本という物と向き合える、触れ合える特権だと思う。昨年の秋に、高校を卒業して18年ぶりに山口に行ったときに、小郡にも寄ったんですが、(書店は)2軒とも更地になっていた。ものすごく寂しい思いをした。

 高校生時代、書店は一番なじみのあるお店屋さんだったという気持ちがする。僕は昭和38年生まれだから、駄菓子屋さん文化を知らず、社交場はむしろ本屋さんじゃなかったかなと思う。考えてみたら、老若男女、普通に入って行ける場所って、商店街の中で書店しかないと思う。書店というのは、子どもが健全な背伸びをして、大人の世界を見られる場所ではないかと真剣に思っている。

 上の娘は小学校4年生で、僕が今井書店に行っていた年代です。買い物に行くと、とりあえず娘を書店に連れていって、「買い物の間、ここにいなさい」と。娘も「書店で10分間で本を選んできなさい」というと、親の薦める本とか、皆の知っているマンガ本を選んじゃうが、「30分、1時間かけて選びなさい」と言われたら、迷いが生まれる。最初はこれにしようと思ったけれど、こっちもよくなって、少しミエを張って、ムリをして、大人のコーナーに行っている。「この本読めたらいいなー」とか言って来るんですよ。

 そうなると、たっぷり迷わせてやりたい、どうしようかなと迷う時間を与えたい。それが僕なりの、書店で半日過ごして、迷いながら本を選んでいた、迷って選んだ本だから大事に読んだ、だから捨てられないという体験をさせてもらった書店という場所に対する、恩返しとまではいかないまでも、書店というすごく面白いワンダーランドがあったという記憶を、娘に何とかして伝えたいと思っている。買い物に行くときは、本屋に寄るんだよ、セットなんだよという習慣を、上の娘は分かってきた。一番の理想は、大きな本屋に一家で出かけて、「さあ、散っていけ、解散。3時間後にここに集合」って感じで、お互いに迷いながら、休日を過ごすというのもいいんじゃないか、と思っている。

 例えば、学校の社会科見学で書店を見学するような流れができればいい。不登校になっても、「とりあえず書店に行っていりゃ、いいか」というふうになったりする場所であってほしい。少年を主人公にした本をたくさん発表しているので、少年問題とか学校の先生とかいうテーマで講演をさせられたり、取材を受けたりすることが多い。そういうとき、書店のオヤジさんが1つのヒントになるような気がする。僕たちの本屋のオヤジのイメージは、立ち読みをしていると、偏屈なんだけれど、「何冊目」って言いながら、ハタキを持ってきて追い払う。子どもたちは逃げていく。その光景は、僕たちの時代にあった。書店のオヤジの行動パターンを読みながら、やってはいけないことだけど、万引きの段取りを立てるとか、立ち読みの、そろそろヤバイかなあ、なんて思いながら、もうすこし、などという、そういう、カッコ良く言えば、丁々発止をやっていた関係がある。

 そのとき思うのは、書店のオヤジが皆、本を大事にしていたよね。本が好きなんだと感じる。書店によっては、マンガ本を開いたとたんに追っている人もいれば、最初の1冊ぐらいは大目に見て、あまり長いと、いいかげんにしろよ、と怒る。この見切り方というか、見切り方と許し方というのは、少年少女と付き合っていく大きなヒントになる。言ってみれば、少年問題を解決するためには、立ち読みを解決するには立ち読みできないようにしてしまえばいい、本をビニールでくるんでしまえばいいという発想で、ものを考えているような気がする。

 考えてみれば、(最近は)書店の店員と会話したことがない。こっちを見てくれない。昔はけっこう話していた。フロアを見ながら、デンと座りながら、そろそろあいつは3冊目だと思うと、ハタキを持って出撃していく本屋のオヤジさんの姿は、子どもと大人の付き合い方のヒントがあるのではないかという気持ちがする。書店という場所には、今後も大きな可能性があってほしい。レジでかけてくれた本のカバーが袋に代わり、マンガの立ち読みお断りがビニールに代えられたときに、何かが変わってしまったのではないか。

 その前の時代を知っている元少年としては、立ち読みができる、そして立ち読みをあまりさせない駆け引きというか、微妙な落としどころを、子どもたちに見せてやれたらいいんじゃないか。オンラインで今、僕の本は皆あります。昔は本屋に僕の本はなかった。だんだん置いてもらえるようになって、八重洲ブックセンターに重松清というインデックスが張られたときはうれしかった。明確な目的があって、本が決まっていて買いに行くときはオンラインの方がいいかもしれないが、書店という場そのものを味わいに行く、そういう書店体験があってもいいじゃないかと思う。

 書店の絶対のメリットというか、本を作る人間は、装幀や帯、紙質から色合いまで、いろいろと計算して、何度もやり直す。オンラインですべての本が選ばれるようになったら、本の持ち重りとか手触り、それらがすべてなくなって、本というものがテキストの、画像のファイルにすぎなくなってしまうような気がする。編集者や装幀家がどれだけ苦しんで悩んで、どうあるのが一番いいかと考えて、表紙や帯、紙質、字詰め行間、活字の種類も全部考えている。その物としての本と触れ合える特権を、書店という場所が持ち得るし、書店以外にないと思っている。

 僕は売り上げに貢献できない作家だが、本、物(ブツ)がここにあるぞ、ブツに触りたかったらうちに来い、うちに遊びにくれば半日間はヒマがつぶせるぞ、というそんな魅力を21世紀の少年少女にアピールしてもらいたい。20世紀の元少年として、21世紀の少年少女を持つ親として痛切に思っている。どうか、書店という場所を中心に、出版社や編集者が英知を結集して、予算を計算しながら何とかしていい本をと思って作っている、本との接点としての書店を、その灯を絶やさないようにしてください。    

(共同通信社 松本正)