分科会2「作家はどのようにつくられ、読者はどのようにつくられたか?」

 出版界が崩壊する、出版クラッシュということが、このところ出版界で言われている。どのようにして出版クラッシュと呼ばれるような状態にいたってしまったのか、それは本の世界の中では非常に重要な問題だ。今回の分科会は、まさに『出版クラッシュ!?』というタイトルの本を共著で出した小田さんと、小説家がいつごろどうやって食えるようになったのかを研究のテーマの一つとしている日本の近代文学研究者である山本芳明さんのお二人に話していただいた。後半にはフロアーからの質問を受けながら、議論をするというかたちになった。取次の不良債権がどうのこうのという現状の分析ではなく、出版の近代史を根本的に振り返るという地味なテーマであったが、参加者は、75名にものぼり、議論も活発に 行われ、全体として面白い会になった。

 まず、最初に山本芳明さん。現在、日本文学は商品性や社会的な価値を失いつつある。持っていた価値を失ったということだが、どういう過程があったのか、歴史を押さえておく必要がある。小説家がいつごろから職業として成立したのか、徹底的に商品性の視点から話をしたいと切り出した上で、話をはじめた。

<最初の勃興>
 大正8年。改造などの新雑誌の創刊により市場が拡大する。改造社の山本実彦が、まず、中央公論に対抗して原稿料を値上げする。400字1枚1円を2円にする。雑誌の 側の著者獲得競争が起こり、大正末期には10円に跳ね上がる。需要過剰、原稿料が高騰する。大正5年の段階では文士は貧乏が当たり前であった。徳田秋声は着ていく服が無くて、出かけられなかったほど。ところが、数年後には、雑誌に掲載しないで、いきなり単行本を出して売れるという状況が生まれた。たとえば、江馬修の『受難者』という作品が大ヒット。今から見ると内容はさっぱりおもしろくないが、当時の読者は涙して読んでいたという。この事件によって、一発当たれば成金になれるという神話がうまれ、新潮社の社長の佐藤のもとへ数百枚の原稿を書いた若者が押し寄せてくるという現象が起こった。いかにもてはやされたかは、ニセモノの出現で裏付けられる。 ニセモノが宿帳に江馬の名前を書いただけで信用され、宿泊し、文化講演会まで行っ た。

<円本の登場>
 大正15年、改造社が苦境の中にあって一発逆転の企画の円本で復活する。円本は2、3万部が販売され、予約金で出版社は莫大な利益を得ただろう。薄利多売によって、大きな読者を獲得した。一方、よいことばかりではなかった。2円や2円50銭に相当する本を1円で売るということであり、その後には、それ以前の価格では本を販売で きなくなってしまった。小田さんのいうところの、早すぎる消費革命が起きてしまった。このあと再び、出版不況。雑誌と単稿本の売り上げが減る。原稿料をはらってくれる雑誌が4誌だけになってしまい、作家は発表する雑誌がなくなった。文学界は、昭和20年代に復活する。作家たちは第二の黄金時代。『小説家?現代の 英雄?』という荒正人のカッパブックスがあり、当時の芸能人をかなり上回る収入を得るようになる。作家は、儲かるという神話がこの時に確定し、現在はこのような状況は失われてしまったのに、作家や読者の意識は、バブルの時期から変わっていない。

小田さん
 90年代になって出版とは別に文学史、明治の研究をはじめてその中で現在の出版の問題も考えるようになってきたのだが、求められるので講演などでもクラッシュのことばかりをはなしてきたが、本来の関心と違いフラストレーションがたまっていた。今回の話はとてもうれしい。元々、佐貫利雄という経済学者の「成長する都市衰退する都市」という考えに触れたことがきっかけで出版産業の盛衰史というものを考えるようになった。どんな産業で も盛衰があるということ。自動車産業、家電がすごい勢いで70年に立ち上がってき た。70年代にはじまったコンビニが小売業の中では一番となっている。出版業界もその目で見ると成長期衰退期がどこにあるかということを知ることができる。文学、作家、読者の誕生し、発生する経路をたどっていきたいと思った。その中で日本特有の取次という特異なシステムがどうして立ち上がっていったのかを考え始めた。明治時代は博文館の時代と呼ぶことができるすごい勢いの出版社があった。学校制度と教科書システムが勃興する中で、ベンチャー企業として立ち上がっ た。

<博文館と東京堂の競争が雑誌の委託を産む>
 博文館は東京堂を作った。にもかかわらず、博文館は自分の作った取次を使わないで各地の書店と直取引を行った。東京堂は、親会社の博文館の商品を全然扱うことができなかった。打開策として新潮社や講談社などの新興の出版社を取り扱うことにした。東京堂に入社した大野孫平は博文館以外の新興の出版者とつきあい、支援した。この時に、雑誌を委託制度にする。雑誌の売り上げが急激にのび、買い切りに固執した博文館は没落する結果になった。明治末に3000軒だった書店が、大正末に9000軒になり、3倍に膨れ上がる。もう一つ、人口の増加があったのではないか。明治末の人 口3500万人が大正で6000万人になり、さらに学生も増加した。これらが新しい出版社 を支えた。

<書籍の委託の始まり>
 書籍の委託は、円本ではじまったのではないか。300種類の文学全集。80社あり、 60社は倒産したという激動の時期。大正期、一方では、書き手が出版活動を行うことがある。バリエーション、多様性がそこにはあったといえるだろう。著者が、身銭を切ってだすか、スポンサーを見つけて出すとかしていた。たとえば、柳田国男に読書論があり、自分を純なる出版人と規定している。実際に郷土研究などの様々な雑誌を出している。昭和初期に円本時代が来る。過剰生産。余った本も多いが、この処理をどこが受け持ったか。植民地。古本屋さんが引き取った。大量生産が起こった時と連動して、古書組合や書籍組合など、今ある出版界の組織ができ、インフラができた。70年以降の産業の盛衰の中で、新しいインフラを作らなければならなかったのに、作らなかった付けが回ってきていると考えるべきではないか。

小田さん
 私自身、本をめぐる神話をつぶしてしまえとは思っていない。本をめぐる神話が好きで、本が好きで出版社を興した。とはいうものの、「誰かをうつ場合は神を打て(太宰治)」というように核心を直視した上でどうしていくのかを考えていかないといけないと思っている。

山本さん
 読まれない作家である正宗白鳥の研究をしている。読む人は日本で数十人しかいないだろう。これは伝統芸能であり、これを保存する白鳥保存会の会長になるになるしかない。研究者の世界でも、文学を研究する人もいなくなってしまう可能性があるが、現実を見据えた上で、継続できる道筋を探して行くしかないだろうと思っている。

(ひつじ書房 松本 功)