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 『振り返って想う一冊の本』 日本宗教文化史学会理事長
小林 正義
 その本を手にしたのは、十八の時であるから、もう四十年近い昔のことである。
 古本屋で偶然手にしたもので、そのうちの一冊は昭和二十九年に新潮文庫に入った『人生論ノート』であり、著者は三木清である。その本と対のように扱われている『哲学ノート』が文庫になったのは、それから二、三年後だった。著者は、転向を迫られ、獄中で生を閉じた人である。
 勉強といえば、教室で習ったことを覚えることぐらいにしか思っていない時代に、考える生活の大切さ、面白さを教えてくれたものである。そればかりか、十代で読んだ本の中から真っ先に思い浮かぶということは、私の人生と大きくかかわった一冊であるといえる。
 『人生論ノート』から思い出すままに拾い出すと、たとえば、習慣は流行に対し伝統的であるが、習慣を破るのは流行である。もともと自己が、自己を模倣することで習慣ができるが、習慣は多数の偶然的な行為の統計的な規則性であるといった考え方に、それまでの私の知らない世界があった。
 また、「秩序は生命あらしめる原理である。そこにはつねに温かさがなければならぬ。ひとは温かさによって生命の存在を感知する」ことができるといい、「秩序は充実させるものでなければならぬ。単に切り捨てたり取り払ったりするだけで秩序ができるものではない」という文に出会った。それが私に「心の秩序」を考えさせるきっかけとなったが、いま思い出しても、新鮮な響きが感じられる。
 歴史を学びはじめたときで、必然と偶然に関心を持っていたが、もし一切が必然であるなら運命は考えられないし、もし一切が偶然であるなら、運命はまた考えられない。偶然が必然を、必然が偶然の意味を持つから、人生は運命だという考えに、蒙が啓かれた。
 この考えがさらに進むと、希望とは運命のようなもので、運命という符号を希望に置き換えてみると、一切が必然であるなら希望はあり得ない、一切が偶然であっても同じである。だから「人生は運命であるように、人生は希望である」と位置づけ「運命的な存在である人間にとって生きていることは希望を持っていることである」という論である。
 ここまで書いて思い出したのは、人生いかに学んだかということは、最高学府にまで上って勉強したということではない。どたん場に追い込まれたとき、いかに身を処していくか、その処し方こそ、人生いかに学んだかという答であるという、三木らしい主張である。
 見知らぬ街で、一人暮しをはじめた戸惑いと不安がある一方で、入学した喜びに浮かれ気分があったから、その主張は鉄槌に勝る衝撃だった。ただ、これがどの著作にあったのか、いま思い出せないでいるが、十代に出会った本の持つ大きな力というものを、自らの来し方を振り返って思うことしきりである。