ひとりで街を歩くのが好きだ。地図を片手にあてもなく歩き続ける。街はヒトとクルマと情報にあふれ,様々な刺激を受ける反面,自分がひとりであるということを否応なしに感じる。そしてどこかで見かけた風景が記憶の断片となり,自己をつくりあげていく気がしてならない。
読書は街を歩くことに似ている気がする。
読書の意味は,この本のこういうところが良かったという具体的なものを表現することではなく,いつかどこかで読んだ(かもしれない)けれど,といつのまにか自分の思考の中にトレースされていくことに見いだせる。それは文章だけではない。挿絵でもいいし,写真でもいい。もっと言えば,手に取った瞬間にすでに意味をなしていくものなのではないかとさえ思う。
昨年の夏出版された『TOKYO NOBODY』(中野正貴著 リトル・モア)は,万物が渦まく東京という都市を切り取った写真集である。被写体として東京を取り上げたものはこれまでにも数多く存在しているが,この作品が他と大きく違うのはそこに人間が誰一人として写っていないことである。
著者の中野氏は10年もの歳月をかけて「その一瞬」を捉え続けたという。気が遠くなるような時間をかけて写し出された写真を見ると,どんな大都市であっても「素」に戻る瞬間があることを教えてくれる。無機質な都会の空気ですら,懐かしさに色づいてくるように思える。「東京には空がない」と言っていたのは高村智恵子だったが,この写真集から見える空はまだまだ青く,高い。
しかしその様は感動を超えて不気味ですらある。眠っているわけでもなく,活発に動いているわけでもない。時間が止まったとしかいえない。もしかすると世界の終わりはこんなふうだろうか,とも思う。そのとき私たちは何をしているのだろうか。
1枚の写真が生み出す世界は無限である。目に映るものは流れていくため,記録として残された事実にはかなわない。恐らくこの一冊もいつか他の誰かの記憶に残り,感性を紡ぐ糸となっていくことだろう。
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