Gガルシア・マルケス著「百年の孤独」(鼓
直訳)新潮社版を再読。と頁を開きはじめた午後、何ヶ月ぶりかの雨となる。夏も終わりの気持のいい驟雨だった。雨の音を聴きながら頁を繰る。たのしい午後となる。
九十四才で亡くなった母は、その三日ばかりを独り語りで語り通した。途中で録音しておけばよかったと思った。「百年の孤独」の再読をはじめて間もなく、その母の末期の語りを思い出したのだ。
母の語りも延々と続いた。
途中嬉しげだったり、相手があって、その相方の話しに返答をし、うなずき、尋ね返し感嘆し、そしてまた自分で語る。固有名詞や場の通稱も、極く若い頃か、幼いときの町家の裏を流れる川の畔であったか。
マルケスの「百年の孤独」の読後にも、長い語りを聞き終えたような、体躯に満ちてくるものがあった。
語りは母であるウルスラがいる白い石畳の建物の奥の濃い影が、いつの間にか馴染んだ色調となり、中庭の食卓を彩る風景は絵本をみているようだ。
母であるウルスラのわが子への想いを馳せるしみじみさは孤独でしかない。読後、その刻をきざんだ重味が一入沁みる。母は生きるほどに重い孤独の中にいる。それは充分に生き通した女(ひと)にのみ与えられる滋味のひとつかもしれないが、噛み締める力に許された咀嚼かも知れないが。
ドキュメンタリー映画「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」(ビム・ヴェンダース監督)でキューバ音楽の老巨人たちが、
思いがけない表舞台に呼び戻されている。映画の中で庶民が暮らすハバナの貧しい街並みも映し出されていた。音楽の巨人たちは苦難をくぐりながらも、いまも泰然と生きている。
「百年の孤独」の中の男たちと重ねてみる“なつかしさ”はなんだろう。
女から見る男の弱さが苦渋の中に見えるのだ。
アメリカに隣接したキューバの孤独の中で、老人の音楽家たちは泰然として生きている。
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