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  幻の本
 鳥取富士書店
   花井 満

 国木田独歩に「忘れえぬ人々」という短編がある。
多摩川の二子の渡しをわたって少しばかり行くと、で始まる作品には、知らず知らず心に折りこまれた情景が宝のように置かれている。
そのひとつに、瀬戸内海を行く船の上から、通り過ぎていく島の水際の男を黒い点になるまでながめていて、今になっても忘れられないという描写がある。私の幻の本も、あるいはこんなことであろうか。
 遥か少年の頃のこと、町にひとつしかない書店で立ち読みした詩集の記憶。
そのなかに生まれてくる子に語りかける母親の詩があった。
いのちの予感に心を昂まらせ、若い母は絶え間なく押し寄せる陣痛とたたかいながら、誕生するいのちに父を話し、家族や未来を語った。
書名も著者も覚えていないが、多感な少年を激しく揺さぶったあの詩が今も忘れられない。
 その一冊は青春の日の恋とかかわる。山歩きの仲間に女性が一人いた。
その女性に恋をした。時間を見つけては山を歩いた。
余り離れていないところに、中国山脈最高峰、標高二千米近くの独立峰がある。
火山であったので頂上の山肌は削ぎおとした尾根に連なる。
山麓から中腹へブナ林が続き、一の沢、二の沢、三の沢がかなりの高みから林を裂いている。
 鳥見迅彦詩集「けものみち」とはそんなときに出会った。彼女に貸せた詩集は、還暦を越えた今も手元にあるだろうか。
 ここからは余談になる。「けものみち」は目録にも載っていない。
少し前に「けものみちその後」という本を見つけたが、あの日は戻らない。
 幻の本は、十和田湖の和井内貞行ではないが、いつか「われ幻の魚を見たり」となるかもと思うのである。