| 連載コラム |
| 出版流通 今日はこんな日 |
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| 最終回 満州書籍配給株式会社設立さる 第.39回 印税の語源と始まりは? 第38回 小説と挿絵の微妙な関係 第37回 雑誌の判型は、売上をどれほど左右するの? 第.36回 円本時代〜出版物の大量生産・大量消費時代の幕開け
第25回 6月21日 『これから出る本』の原点は?第35回 書協、責任販売制案を発表 第34回 「『日本百科大事典』第一巻刊行さる。悲劇の始まり」 第33回 発禁本の指定は? 第31回 8月23日 昔もあった読書普及キャラバン・カー 第29回 8月7日 戦争協力体制に大転換 第28回 7月26日 検定教科書の記述に中国政府が抗議 第27回 定価販売への動き〜定価販売と返品制はセットではなかった〜 第26回 7月11日 大正14年7/11;四大取次時代へ 第24回 6月15日 雑誌『日本大家論集』の成功 第23回 6月 5日 第22回 5月22日 図書館蔵書封印事件!図書館の自由は?読む権利は? 第21回 5月22日 昭和60年(1985年)のきょう、出版ビデオ懇談会発足 第20回 5月 5日 現代出版流通システムの原点、日配が設立 第19回 4月30日 図書館記念日制定 第18回 4月28日 編集製作会社が協会を設立 第17回 4月24日 地方小出版流通センター開業 第16回 4月13日 著作権の集中処理機構 複写権センター設立へ 第15回 4月 1日 第14回 3月17日 「週刊まんが雑誌、登場!コミック文化がメジャーになる日?」 第13回 2月26日 「再販問題について」 第12回 2月19日 「一書店当り20.5! 何の数字だと思います?」 第11回 2月16日 「共通雑誌コードが誕生」 第10回 2月 6日 「週刊新潮創刊」 第9回 1月26日 「幻に終わった出版流通センター構想」 第8回 1月22日 「雑誌の同一地区同時発売を書店組合が提案」 第7回 1月16日 「45年前に書籍の定価は2種類あった時期があった」 第6回 1月 8日 「書協と日書連が返品減少対策マニュアルを作成」 第5回 1月 6日 「定価の表示騒動勃発」 第4回 12月20日 「図書券の発行開始」 第3回 12月12日 「書店の窮状と正味闘争〜永遠の課題?」 第2回 12月5・6日 「雑誌創廃刊と部数」 第1回 11月28日 |
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12月31日 大晦日イブです。もうお休みの方や、今日でお休みの人もおられましょうね。ウチは元旦だけが休業なのでまだ仕事です。さっきCTVのニュースで「今年の雑誌書籍の売上は昨対3%減の見込み、これで5年連続減少」って云ってた。ついウサギ耳になる。出版科学研究所の1〜11月データからの推測発表だという。 3%減少? 本屋の現場はそんなんじゃないやいゾッ! 10%は落ちとるし、5年連続どころか、実売全体なら過去7間は減少しとるし、1980年代後半にまで戻っとるんじゃないだろうか?感覚的だが。 出版流通史150年の歴史の中で、いく度も不況にみまわれ、そのつど「痛み」を伴いながらくぐり抜け、拡大してきた。でもその「痛み」は経営努力の不足や構造的経済不況だとかで原因を説明しただけで、読書・読者に面と向かった流通システムの根本的改善はさけられてきたようだ。何人かの業界人も指摘してきたにもかかわらず。 今の出版流通システムは戦後すぐに整備されてきた。誰によって、どういう意図によって、どのようなシステム設計図のもとに創られてきたのかは、ヘタなミステリー小説より面白いナゾ解きの醍醐味を味わえる。業界ワールド・ミステリー・インターチェンジャーとしては。さて今日はなんの日?今の業界を造った出来事は? 昭和14年(1939年)の今日、12月30日。満州国の新京特別市(今の中華民国長春市)で、思想統制と満州国内の出版流通の一元的管理統制を目的に満州書籍配給株式会社が設立された。称して「満配」。これの会社の設立によって、日本から輸入される出版物はすべて満配が一手に扱い、満州国内の販売店(書店など)に配給するシステムが出来上がった。 満州国ってのは、中国の北部に大日本帝国が対ソ連対中国ように建国した国といわれ、1945年には地球上から消えてしまった国で、当時の日本にとって経済的にも社会的にも重要な国だった。(属国;植民国?歴史科学的・心情的にも議論はあろうが、その建国のいきさつは歴史学的にも明らかにされきっていない。60年前のことで体験者も、ひょっとすると当事者も生きておられるかもしれないが、歴史の闇に包まれて陽のめを待っているのだろうか。) 出版界にとっても、冷えきった国内市場の減少分を朝鮮や台湾・満州で補うことは不可欠だったろう。文字通り「満州は日本の生命線」だったんだなあ。昭和10年から18年くらいまでの出版輸出データを詳しく見てみたくなる。 当の政府・軍部は日本国内でも新聞や出版の一元的管理システムを実現したかったが、業界の長年の商習慣やしがらみで徐々に変形しつつ進められていたが、満州国の行政や交通機関の掌握と軍事力をもって、過去のしがらみも関係なく、また図書の収奪や図書館の統制も同時に行われながら、強行に管理システムを実現できるのは満州国が最適だった。この「満配」システムが1年半後の昭和16年5/5に「日配」を誕生させる。(「日配」は本編「No.19>現代出版流通システムの原点、日配が設立」)その日配の指導者は戦後の東販・日販など取次を設立することになる。纏めれば、満配モデルが日販を創り、日配モデルが戦後の今の出版流通モデルになっている、と云える。 この満配や日配モデルは、戦時統制システムに使われたので「悪100%」と考えがちだが、流通システムだけから見ると、これほど効率の良いシステムはなかった。現在でも日本の出版流通システムは特殊で他国に類を見ない。欧米の取次界は日本の取次界をうらやむ声も聴く。しかし、一元的システムがその効果を十分発揮できるのは、少品種大量か所得政策実施下であり、1970年から10年間で起こった読書の多様化による書籍雑誌ニーズの変質、次の10年間で起こったメディアの多様化による流通チャネルの疲弊変貌、さらに次の10年間で起こった読書・情報環境の変化、といった「多様化」に対応するには逆に非効率になる。たとえば、文部省検定済み教科書の出版流通システムは一元的で極めて効率的に機能しているし(返品率5%くらい?)、地方のデリバリーネットワークを利用した地域限定販売の情報雑誌は、製造販売流通システムも物流調整や制作フィードバックの早さなどで実売率90〜95%を実現している。他方、全国チェーン書店と大出版社が核になり、出版流通システムの全国規模のSCM化が実験進行している。 2010年までは読書・情報流通システムの一部としての出版流通として「多様化」していき、ニーズへの対応を「痛みを伴い」ながら進行していくんだろうなあ。 そんな経営環境の中で、ボクになにができるのだろう?なにをしなくっちゃならないんだろう?2002年のお正月休みに、よお〜く考えてみよう。 <注>このシリーズは、鈴木徹造『出版界365日小事典〜明治から平成まで』日本エディタースクールと紀田順一郎監修『新版 本の情報事典』出版ニュース社『日本出版百年史年表』『日書連55年史』を核に、CD版平凡社世界大百科事典Proを始め様々な著書・資料を参考にさせていただいて、書いております。著者の方々にはこの場をお借りしまして、御礼申し上げます。(文意や解釈については小生の責に帰します。) 甲川 純一 拝。 12月24日 書籍の場合は比較的はっきりしていて、定価 X 部数 X 印税率、という印税方法が多い。定価1,500円の書籍を3,000部刷れば合計450万円、そのうちの7%〜10%(印税率)が著者に支払われるから、31.5〜45万円。しかし刷り部数、発行部数を「部数」とする場合で、返品率が高い昨今ではこの「部数」を実売数とすると、より少なくなるし、実売確定までの2〜3ヶ月間支払が遅れることになる。 2〜300頁の本を書き上げ、編集段階での諸々の打ちあわせなどの労力の代価は、このようにして決められている。因に出版流通各段階での取り分は、製造原価:著者:出版者:取次:書店=4:1:2:1:2で、製造原価が低下すればその分は出版者に入る。製造原価:著者:出版者:取次:書店=3:1:3:1:2のように。1000円の本なら製造原価:著者:出版者:取次:書店=400円:100円:200円:100円:200円、各々はその範囲内で自己の経費を捻出することになる。 この「印税支払い方式」は、いつ、誰と誰が、始めたんでしょう? 明治19年(1886年)の今日。翻訳者・小宮山桂介(天香)と鳳文館館主・前田円との間に、『概世史談・断蓬奇談』(フランスのエルクマン・シャトリアン『マダム・テレーズ』の翻訳)を出版するに際して、「壱部ニ附金拾銭ノ割合ヲ以テ印税ト称シ売上高ニ応ジ」支払う、ことに始まるとされている。当時は本の流通は買切りだから、実売数と刷り部数に大きな差はなく(大きな差があれば出版者の大損か大儲け)返品制度化での実売数とは、その意味合いが違ってくる。このころから著作権者が書籍一冊一冊に押印した印紙(検印という)をはり、発行部数のあかしとすることが慣行となり、検印廃止後も印税方式が使われている。 じゃあ何故「印税」というの?CD-ROM世界大百科事典によると、この検印に基づく支払方法が印紙税と似ていることに由来する。印紙税は、課税物件たる文書にその作成者が印紙(収入印紙)を貼付し,これを作成者の印章等で消印して納付することを原則とする租税であるところからこの名がある。印紙税は,文書作成の背後にある経済取引等に担税力を認めて軽度の税率で課税する流通税であり,その税率は,文書の記載金額に応じて負担を求める階級定額税率と,記載金額にかかわらず一律に負担を求める定額税率とを主としている。印紙税がはじめて徴収されたのはオランダ(1624年)においてであるが,その後,これにならって諸国で採用された。日本では1873年の〈受取諸証文印紙貼用心得方規則〉がその起源で,99年の印紙税法によって制度的にほぼ整備された、んだって。そういえば古い書籍に黒すすけた朱印ののこる印紙が剥がれそうにへばりついているのを見たことがある。 実売の率で収入を得るわけだから、当たればでかい!福沢諭吉は非合理な印税のため出版屋を嫌い、みずから出版者となり『学問のススメ』などの出版し、その利益と印税で慶応大学を創立したし、鴎外や漱石らの実力ある作家は出版者と交渉して原稿料・印税の慣行をつくっていった。第一次大戦以後、新聞・出版はマスコミ化し、小説掲載をキッカケに菊池寛や芥川竜之介らは作家として生活を確立。26年ころから不況にあえぐ出版界で円本合戦が起こり、出版コンテンツの需要ビッグバンが起こり、作家の成金時代〜筆一本で豪邸に住み自家用自動車を乗り回すという現象が起こった。これにより才能アル若者たちが出版界に流入することになる。 雑誌や新聞の場合は、一文字当たり検討(10円〜50円)とか原稿用紙一枚幾ら検討とか、見開き2ページで幾らとか・・・千差万別ぎみの「原稿料」とか「稿料」という。印税とは言わない。多くの場合、400字詰原稿用紙1枚当りを単価(原稿料の単位は語数による)とするので「原稿」料となるが、新聞や雑誌などでの著作物1回の使用料をいみする。日本で原稿料制度が普及したのは,出版が企業化された1910年代以降といわれている。宗政五十緒先生によると、曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』が1冊につき金4両。これは流行作家の例で、一般には1冊1両程度、5冊物で5両。原稿枚数で400字詰め200枚余りの稿料。合巻では6冊物1編の稿料は馬琴で5両から10両、一般には5両程度であった。柳亭種彦はベストセラーの『偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)』でかなりの稿料を得たようである。近世前期では西鶴が浮世草子『好色浮世躍』6冊の執筆に前借銀300匁を得たと『元禄大平記』に見える。これが実説によるもので、浮世草子5、6冊物で稿料おおよそ5両ということになる。だそうだ。 「印税」「原稿料」といっても色々歴史があるもんですねえ。 12月18日 編集者のケータイが鳴った。なにやら小声で喋ったあと「ちょっと事故があったので、バッグを持って現場に向かう」と、カメラマンと警備員にそのまま待つように告げ、撮影現場を去った。 そのまま戻らなかった。 という記事が朝日新聞12/10に載った。年末になると、それに今年は不況深まる年末〜鈴木書店も倒産してまったくらい〜だから、本屋さんも図書券詐欺だけではなく、店頭のレジも開店と閉店まぎわや、年末の支払いには注意しましょう。 師走の風の中、冬の陽いっぱいに受けたサンルームで珈琲を前に、朝日新聞の「小松崎茂氏を悼んで〜描き続けた少年の夢」を読みながら、書いてます。 さて、いつも通り・・・、 昭和10年(1935年)のきょう。12月18日、大菩薩峠挿絵集事件、霧のかなたへ。 音無しの構え、剣の妙手、机龍之介を主人公にした大長編小説『大菩薩峠』は、中里介山著、石井鶴三挿絵で、大正2年から「都新聞」に連載、好評を得ていた。 その石井鶴三が、昭和9年に、挿絵だけを一本に纏め、『石井鶴三挿絵集』第一巻を光大社から単独出版した。中里介山は著作権侵害を主張。いわゆる大菩薩峠挿絵集事件である。 時あたかも、小説と挿絵の関係に明確性が認知されておらず、これを契機に学者・作家・画家らによって、小説と挿絵の著作権の帰属問題が議論百鳴。大いに注目さるも、12/18、中里側の告訴取り下げでチョン。検事局や裁判所など公式な見解が出されないまま、問題はのこされたまま幕引きとなった。
挿絵は本の世界のオアシス・ほっと一息休憩場、文章のイメージ創りの助っ人、挿絵自体が独立した世界を感じさてもくれる。『ズッコケ三人組』シリーズを読んでいても、地図や挿絵があるとホッとする大きな松が影をつくる一里塚だ。ただ挿し方がむづかしいだろう。余り頻繁だと読みノッてきたリズムが止められるし、まだかなあ、と挿絵を待ちこがれるほどに空いてもいけない。また文章と絡み合いながら、読者のイメージを膨らませなければならない。絵としても美しく一流でなければ・・・。 こうなると挿絵画家ってのも大変だなあ。 一冊の本は文筆家だけでなく多くの人が関わって世に送り出されているが、その作品や行為の権利はどうなっているのだろう。書協の樋口清一氏「出版物のデータは誰のものか〜デジタル時代の著作権と出版契約」を参考に整理してみると、 出版者=設定出版権;印刷媒体での複製・頒布、編集著作権、法人著作権 その出版者と契約する、 著者=著作権;複製権・口述権・上映権・公衆放送権・翻案権・翻訳権 監修者=出版者と契約 編集委員会=出版者と契約 写真家=著作権 挿し絵画家=著作権 装幀デザイナー=? 編集プロダクション=編集著作権・法人著作権 (著作権の譲渡権は著作権者に;著作物の利用の許諾も含む) 印刷者との関係で、オフセット印刷の原板や原板フィルムの保存・保険・消去などのルール問題もある。 かなり多岐にわたるんですねえ。ところで取次に支払済みの書店在庫の所有権はどこに帰属するのでしょうか? 12月9日 昭和30年(1955年)の今日、12月9日。家庭婦人雑誌の『主婦の友』新年号が一回り大きくなった。判型がA5判からB5判に。 定価も180円から135円に値下げ、付録も廃止の方向へ、と刷新を図った。当時、家庭婦人雑誌は『婦人倶楽部』『主婦と生活』『婦人生活』と四誌伯仲の様相で、雑誌の多くもA5判のモノが多かっただけに、老舗『主婦の友』の変身はおおきな話題を〜競合誌には衝撃を〜あたえた、と伝わる。 雑誌の判型の変更でリニューアルする例は、これ以後たびたび試みられるが、売行きを左右したのだろうか?近くは、読者の高齢固定化による先細り感を「若返り」でリニューアルした『婦人公論』の例が在る。(刊行形態も月間から隔週間に変えた)『中央公論』と共に中央公論社の二大看板雑誌だっただけに、判型の変更だけでなく、刊行形態もサイクルを短くスピード感ある隔週間にしたり、もちろん内容も誌面創りも、広告写真もターゲットにあわせて厳選した。結果大好評だった。 地域情報誌の『ぱ〜ぷる』の場合も誌面を大きくして売上を延ばした。奈良県限定の情報誌3誌の内の一誌だが、判型変更の狙いを編集長に聞くと、奈良在住者である読者の多くは、特に情報誌の中心読者である若者は、大阪への通勤通学者が多く、雑誌といえばB5判系に慣れていた。その読者に自然に(ダサイ感なく)見て貰える雑誌にしたくて、とのこと。 変形変更には、販売店の棚での読者の注目度を高めて、出会い効果が在るようだ。一方、誌面創りが変るため、編集も取材も写真図版も記事も大きく変ることになる。編集者のマンネリ気分一新にもなる。が、従来の読者が離れることも想定され、大冒険ということだ。 書店員にとっては、判型の拡大は、正直辛い。陳列にも苦労するが、配達が大変。輸送時に本の角が傷むし、重いし、付録が多ければ、袋入れにかなり繊細な注意が要求される。 またこんなのもある。流通形態は「雑誌」ではなく「書籍」で定期的に発行されている『カフェ』と言う本が在る。横浜市の枯野社発行で、新書サイズのペーパーバック150頁弱で消費税込み@600円(本体570円、なら込み599円の計算?本体571円かな?こまかいけど)広告も在り、年4回刊行してるし、雑誌というか定期刊行物なんだけれど、流通上の諸事情から雑誌コードが取れなかったのかISBNを取っている。「4-8123-0662-0 c0276」 c分類は産業の扱い。内容は読み物だからc0295あたりになるんじゃないかと思うんだけど・・・、判型が新書で紙も軽いし内容も時々のカフェ紹介(といっても店が無くならないかぎり即時性を求められる記事じゃないけど)もあって、これがB5判情報誌のような大きさになると、読み手としてはちょっと辛いものが在る。 もうひとつ、『本とコンピュータ』がある。前号から判型を少し大きくした。個人的には内容に多大な魅力を感じているので(書店人としても必読保存本と思い込んでいる)、判型も重さも問はず持ち歩く。自分がこれぞ!と想いこんだ本(書籍も雑誌もパンフレットも)は持っているだけで、自分が変っていけるようで持ち歩くし、書棚の一番目立つところに挿し入れる。造本もそうだが中身と一体にバランスがとれていないと。 なんやかや云っても、読者には誌面が大きくなれば、活字や写真図版も大きくなり、視力の衰え始めた小生など、ありがたい。でも電車やバスの中でも読みたいから、重いのは困る。『婦人画報』は表紙も上品で写真も奇麗だし、記事も読み応えあし、新年号の付録の「日記?」も今年はハードカバーと豪華だが、如何せん重い。判型はある程度大きく、記事も親しみやすく格調あり、写真図版もパッと眼に優しくははいり、軽く、・・・なんて雑誌が良いのだが、こんな雑誌を定期的に創るほうはたまったもんじゃないでしょうねえ。 雑誌についてのあれこれは、紀田順一郎・監修『新版 本の情報事典』出版ニュース社PP130-146がコンパクトに纏まっている。 12月3日 大正15年(1926年)のきょう。12月3日。改造社『現代日本文学全集』第一回「尾崎紅葉」が発売。 なあんだ、文学全集なんて今更売れないよ!その通りです。筑摩書房の『文学の森』あたりが最後じゃないかなあ。(本屋の年寄りおじさんの回想)ただ、個人全集はまだまだ発売されている。ということは売れてるんでしょうね。1巻5000円とか7500円とかして、本屋のおやじでも買うのに二の足踏む値段になってるけれど。 この改造社『現代日本文学全集』は廉価版総合文学全集の元祖でもあるわけで、日本出版流通史上おおきな出来事でもありました。 理由ですか? まず、べらぼ〜に安かった。なにしろ菊版500頁のハードカバーが1円ぽっきり。消費税なんて無い。当時の小説単行本が200頁くらいで3〜5円はしていた時に、一作家の作品を3〜5作品合本で1円だから、3〜5倍の内容で値段は3〜5分の一。上下合わせりゃ6〜10分の一だもん、こりゃあ凄い割安感。「円本」と呼ばれた由来は、当時東京市内ならどこまで乗ってもタクシー代は一円で「円タク」って呼ばれていたのが流用された。 次ぎに、事前前金予約で35〜40万部あったというから大量生産+大量消費の元祖でもある。その背景には全国的な書籍の流通網が出来上がっており、末端の書店も全国で1万軒(平均坪数は10〜20坪)に達しようとしていたし、殆どの本屋が雑誌の定期予約の家庭配達をして、販売網も出来上がっていた。出版流通史ではこの点が重要なんです。今の流通システムがこの時に出来上がったと云えるからで、(小田光雄氏は近代出版流通システムって名付けておられます。)今日の様々な出版流通システム上の問題点はここから発生してきてるんです。だから解決策もこの時代に埋もれているわけです。 三番目は返品できたこと。支払いとか運賃とか細かい取引条件や実態は後日の研究を待つが、流通システムとしてはかなり現在に近い。ただ一点、必ずしも定価販売ではなかったようで、書店は結構値引きしたり発売日より早く売ったりしていた。 その結果、2、3年後には大量返品が発生する。返品の受け皿の機能は古書店も受け持つが、一方で海外に輸出した。海外と行ってもアメリカやヨーロッパではなく、朝鮮・満州など、いわゆる植民地に流したようだ。(文献資料には当たっていないが)現在の返品は、当時のように、またアメリカのリメンダーの様な機能は確立されていないので、返品はモロに出版社や取次や書店の利益や(経費増により)経営を圧迫する事になってます。 四番目は、読者を急激に拡大させました。もちろん学校教育制度の整備や工場などの職場教育の一環としての図書室の設置などの読書リテラシーや環境もありますが、この安さと発行量によって読書人口を増やしたといえましょう。 ついでに、製本や造本(箔押しとか)の技術も変化させます。より沢山売るための工夫を、出版社だけではなく、用紙や製造段階でも行われました。輸送や倉庫といったデリバリー関係にも影響を与えていきます。 五番目は、出版企画の大半が改造社『現代日本文学全集』に続く円本出版、全集出版の中でほとんど出尽している、という点。以下『日本出版百年史年表』から当時の全集発行を引き抜いてみたが、あることあること。現在でも行われている「新企画」が幾つか有る。歴史は「繰り返される」ってのは本当かもしれません。 円本=廉価・大量製造・大量販売・大量消費・大量返品、それらを可能にするインフラの整備も引きおこし、日本出版流通史や文化史に大きな影響を与えました。(疲れた人は以下省略して下さい。) 1927年1月30日に新潮社『世界文学全集』全38巻予約募集。東京朝日新聞に2頁見開き広告(予約56万部と伝)3月に大日本学術協会篇『日本現代教育学大系』48巻モナス『アルス写真大講座』12巻アルス『世界映画全集』20巻キネマ旬報社『世界大思想全集 1期』54巻春秋社『世界文学全集 2期』19巻新潮社『未刊随筆百筆』23巻米山堂(『海表叢書』6巻更生閣『漢文叢書』25巻友朋堂 『近代劇全集』44巻第一書房『国文学名著集』12巻文献書院『世界文化史大系』12巻大鐙閣『大日本憲政史』10巻寶文館は円本ではないが全集として刊行)5月には『現代大衆文学全集』60巻平凡社、6月には『小学生全集』96巻興文社(2冊70銭)『日本児童文庫』76巻アルス(1冊50銭)『明治大正文学全集』60巻春陽堂、7月には『家庭科学大系』100巻生活文化研究会『現代鉄道叢書』14巻鉄道時報局『世界戯曲全集』41巻近代社、の全集が刊行。又7月には改造社『現代日本文学全集』売行き好調のため全37巻を全50巻に改める(後さらに13巻追加1931年6月)。他社も全集類増巻化し出版業界や関係業界、読書界をあおる。8月には『日本随筆全集』20巻國民圖書8月には『羽仁とも子著作集』20巻婦人之友社、9月には『二宮尊徳全集』36巻尊徳偉業宣揚會、10月『明治文化全集』24巻日本評論社『神話伝説大系』18巻近代社、11月には『世界美術全集』36巻平凡社『物語日本史大系』14巻早稲田大学出版部、12月中には『大思想エンサイクロペヂア』25巻春秋社『日本家庭大百科事典』4巻冨山房『日本芸林叢書』12巻六合館『日本儒林叢書』12巻東洋圖書『日本風俗史講座』10巻雄山閣『万有科学大系』30巻新光社と、続出。その間年表風に追えば以下の出来事有り。 1927/6/1、円本全集の濫出とその数量の増加のため大取次から地方小売書店への発送と到着が混乱、平凡社、改造社、新潮社など円本版元および大取次は、各地方小売店に対し発売日協定を要請。 1927/7/10、岩波書店「岩波文庫」創刊。100P★一つ20銭、自由分売方針で円本同様大量生産・販売の反響大。文庫版出版方式を創る。 1927年11月中、月刊誌『キング』大日本雄弁会講談社より刊行。11月創刊号四六判830頁「明治大帝」を付録。130万部発行(雑誌で始めて100万部を越える) 1927年11月17日、円本などにより印刷用紙の需要激増で、洋紙業界の大正會を中心に東京市内の紙商問屋は共同して取引改善を意図、従来の延取引の寒冷を廃し現金取引の具体的方法を協議。 11月28日 昭和48年(1973年)の今日。11月28日、書協、責任販売制案を発表。 委託制度化における返品減少として、責任販売を約束し完全履行を提案した。 この提案は、一年前、昭和47年(1972年)業界のマージン体系改定、特に書店マージン25%達成を謳って書店が不売運動を展開(いわゆるブック戦争)その結果、600円未満77(都内)、1200円未満78、3000円未満79、3000円以上81となった。(書店組合の提案マージン率は1000円未満74、2000円未満75、3000円未満76、3000円以上78、現行73は据置。)その折りに、返品減少の為の現実的効果的ルール創りを業界で取り決めるという約束に添ったもの。 折しも通産省・取引条件適正化委員会で出版業界の取引条件の正常化を問題にされていた。問題点は、1>売買形態、2>マージン構成、3>リベート及び割引制度、4>委託扱いによる返品、5>物流の効率化、6>送返品の運賃、7>適正配本機能、であった。(『出版年鑑1973年版』より) 書協の提案は、「買切り、部分委託、完全委託の条件を厳守する。」と言うものだったが、取次協会や書店組合との協議に難航、時間が経ち、地方正味は検討事項になったり、翌年には書籍定価も上昇し、返品率は下がらずむしろ上昇する。結局「責任販売制」の業界ルール化は霧散した。ある人の分析では、出版社営業が注文品と称して返品条件を付け書店に仕入要請をし、書店も金融性の高い仕入や無責任な返品を行うことを止めず、結果20余年間続けた結果、出版バブルを発生、近代出版流通システムの崩壊に繋がった、と。 この背景には、前述の通産省・取引条件適正化委員会の正常化問題点の改善合意、解決への努力を実らせられなかった事情がある。今日まで、様々な業界的問題が発生してきたが、流通システムの根本的ルールの明確化や改善は為されず、当面目先の問題に終始した結果が、ITの登場と相まって、出版流通業界、書店業界を構造不況業種にしてしまったのかもしれない。 再販制度の弾力運営問題ともからんで、昨年来何度目かの「責任販売制」が叫ばれている。今度こそ、業界挙げて、書店も取次も出版社も市民・読者も納得できるルール作りを行わないと、読者から見放されてしまうだろう。業界団体の役員諸氏にだけ任せないで一書店人、一出版人として日頃の業務の中で活動していかねばならないだろう。 一書店としては、まずは、取次と気長に交渉して、不要な「配本」を減少させつつ、徹底的な個客管理と商品管理を実践していくべきだ!と自分に言い聞かせて、筆を置く。
我々書店に毎日百数十点の本達が届けられる。陳列して販売する書店も大変だが、それらを生み出す人々やデリバリーする人々も同じように大変なのだ。それを選ぶ読者もやはり、目移りしたり迷ったり探せなかったりで大変なのだ。 出版社では編集者一人で月間何冊の本を創るのだろうか?聞くところによると、4〜6冊が多いらしく、極端な場合は10冊あるとも。もちろんこのような数字は、編集プロダクションにかなりの部分(丸投げもある)下請けに出してこそ為しうる数値であり、それだけマーケット・リサーチも編集密度も低下する危険性も高くなる。小出版社では流通条件や資金問題、人的問題もあって、このような量産体制は取りようもないが、それだけ昔からの密度の濃い編集・出版が生き残っている可能性が高い。 資本力のある出版社が出版文化史に残る大規模な出版が可能と考えがちだが、そうでない例もあることを、この『日本百科大事典』で知った。畢竟、出版は出版者の情熱如何なのかもしれない。 11月13日 明治37年(1904年)の今日、11月13日。マルクス&エンゲルス著『共産党宣言』の部分邦訳が発売禁止処分。訳者の幸徳秋水と堺利彦と編集人の西川光次郎に各80円の罰金刑。 東京市内のうどん・そばのかけやもりが1銭5厘だから、80円ならもりそばが53,333杯食えた金額。(2年後の明治39年には2銭に値上げされるが)1銭5厘といえば、太平洋戦争時の召集令状の郵便代と同じ値段だなあ。『1銭5厘のうた』暮しの手帖社って本があったなア。 同月23日にはやっとこさ旅順203高地を占領した日でも判るように日露戦争終真っ只中だった。国民は肉親の戦死や戦傷に悲しみながらも往来では日の丸を振り提灯を持ち戦勝を祝っているし、同月16日には明治33年に結成された社会主義協会が結社禁止にされている。そんな時代に、平民主義や平和主義や社会主義を唱える『平民新聞』を明治36年から刊行し、非戦論を主張していたわけだから、政府からも戦死・戦傷家族からも異端視されていた。そこへ『共産党宣言』翻訳掲載だ。いくら部分訳とはいえ言論統制の槍玉に上げられないはずはない。明治39年に同書の完訳が『社会主義研究』第1号に掲載されるが即発禁。もりそば5万杯以上も罰金とられてもめげなかったんだア。すごい執念だ。結果堺利彦などは逮捕・拷問の末獄死している。 さて、「発禁」は「発売禁止」の略語だが「発行禁止」も意味するらしい。新聞紙法の23,24条や出版法の19,20条で内務大臣は安寧秩序を乱したり,風俗を害するものと認めたときは,新聞その他の文書,図画の発売・頒布を禁止することができた。この禁止命令に違反した発行人、編集人、著作者、発行者は、禁錮刑か罰金刑。発売禁止は一時的な行政処分でも発行人達に与える心理的・経済的圧力は大きく、言論・出版の自由に対する深刻な脅威、言い換えれば言論統制の有力なツールだった。 中国でも焚書はあったし、大岡の越前さんが「奥付」を命じたときもパブリッシュ(出版)をコントロールする、ひいては国民統治の一手段だったし、今も代わりはない。 印刷術が大量出版を可能にするや、統制側としては、発行される出版物の検閲だけでも大変な労力を要する。警察庁と出版関係者代表とが倫理委員会を設け、各県警察本部で、主に「風俗を害する」出版物や映像物の実物検査をしているし・・・。新聞や放送関係とも各々実施している。では今流行りのインターネット関係は?これは大変な事になる。まあ、プロバイダーを必ず経由するから、警察(為政者側)とプロバイダー倫理会議でも設けるのだろうか?迷惑メールでいろいろ取りざたされているから、あながち冗談でも内科も知れないが。 大正15年7月23日には新聞法や出版法下の内務大臣発禁命令にたいして、事前通達や緩和などを請願しているし、昭和4年11月11日には文芸者や出版団体が、急増する発禁処分にたいして、取締検閲制度の公正な運営を請願している。 現憲法下では、発行禁止も行政処分による発売禁止も許されていないが、厳密な条件のもとに名誉毀損やプライバシー侵害などには発売・頒布の差止仮処分は許される。映画「エロス+虐殺」事件や「北方ジャーナル」事件「フォーカス」などのほか、現憲法の下で発禁的処分に近いものに、警察官がわいせつ文書の疑いで書店などからわいせつの犯罪証拠品として押収する場合や、青少年保護条例に基づき青少年を有害環境から保護するために有害図書類の販売を規制したり、収納図書類を事前にチェックして自動販売機の設置を禁止する場合などがある。それらの行為も行き過ぎれば憲法21条に反する「発禁処分」となる。 本屋にとっては、「発禁」ってどんな意味を持っているんだろうか?発禁処分の新聞や出版物の自由を奪うことは、国民の知る自由や読む自由を奪うことだし、10年20年ではなく、50年100年というスパンで観た、政治的・社会的・文化的損失は大きいことにも想いをはせなばならないのかなあ。 11月7日 昭和15年(1940年)11月7日、政府は「用紙規格規則」を発表し、従来の菊版や四六判に加えてA版B版の2系列の仕上げ寸法を公布、翌年1月1日から施行した。以来A4版、A5版、A6版、B4版、B5版、B6版が主流になる。 この判型は何に影響を与えてくるのだろう? 印刷の紙型がA 列と B 列になると、本の判型もそれに従っていく。すると、ジャケットや表紙ばかりではなく、著者の原稿が書物という品物の形になるまでの間の多様なブック・デザインを創造していくが、装幀家や編集者はそれらを書物の内容と条件にふさわしい意匠として一つにまとめ上げる。造本・体裁・扉・見返し・表紙・ジャケット・箱・帯・花ぎれの色などのデザインと材料、本文活字の組み方、余白の取り方などなど、生み出そうとする本のために一つ一つ選び、考え、工夫を凝らす。その土台に判型はあるのだろう。 ところで、紙型の変更は新聞も深く関係する。日本の新聞界は1949年から65年にかけて,基本活字,新聞インキ,巻取用紙,紙型用紙などの規格を統一した。このような資材の規格化・標準化は,機械化・合理化への準備となった。資材の規格・品質が一定したことが、機械化への道を開き、印刷や製本のコストの量産効果を生む。それゆえ本の大量生産も可能になってくる。 ただ、紙のかたちの規格に限って言えば、明治以前の和紙も、案外と暗黙裡に規格化されていた面があるらしく、インターネットのサイトで調べてみると、 「明治初めの各地の紙のカタログ「諸国紙名録」から、紙の比率を調べたことがあります。ドイツから紙の規格が導入される以前のものです。結果は、大多数が、1対ルート2の比率に近いものでした。B版の話もあります。B版というのは、国際規格だと思っているひともいるでしょうが、国際工業規格にはA版しかなく、B版は、日本の美濃版という公用の紙の大きさを起源とするものです。「半紙」という名は、この美濃版を半分にした紙の大きさからきています。」とhttp://www.origami.gr.jp/BBS/00201-00250.htmlにある。 折り紙に触れ合ったついでに、日本折紙学会のコンベンションや岡村昌夫の折り紙語源・起源議論も。曰く「羽鳥さんのいう、江戸時代に正方形の「折紙」」を売り出した人がいるというのは、全く初耳です。「江戸時代」に「折紙」と称しただけでも大ニュースです。私の知っている範囲では、明治9年に開設されたお茶の水の幼稚園で、フレーベルの「たたみがみ」に使うために、近所の「小林染紙店」に作らせたのが最初です。色紙でしょうが、裏が白いものだったかどうかわかりません。ドイツでも既成品は無かったようで、ドイツの資料では「製本屋に注文するとよい」などと書いてあります。そのころ「小林染紙店」では幼稚園に納めた余りを店頭に置いたことはあったが、一般に売り出すようになったのは大正になってからだということです。」 「DTP Class A」というサイトでは、 (http://kondou.comic.to/nobuo_Web/zyukai_one01.html)【版型】(はんがた)紙のJIS規格を基準に、さまざまに分けられた本の大きさを指す。(http://www.booksaz.co.jp/bookdic/dic_06.htm) 版型や版面の大きさは、出版目的に合わせて決めること。 版型・版面・マージンを決定する上での基本ルール 1.判型は、JIS規格寸法に従い、原稿内容や原稿量などに合ったサイズを選ぶ。 2.版面の大きさは、判型によって異なるが、1冊の本の中では、大きさを統一する。 3.版面の大きさは、可読性と、製本様式などの造本上の条件を考えて決める。 4.一般の書籍では、版面は紙面の50〜60%が標準である。 5.版面の形と位地によって決定されるマージンのとり方は、天・地・ノド・小口のバランス、左右見開き2ページの視覚的バランスを考えて決める。 6.版面と相似形で紙面の天地・左右中央に置くのが基本であるが、視覚的な中心と使いやすさ等を考えて、次の2つの原則も合わせて考慮する。 ・天より地の方をやや大きくする。 ・ノド<天<小口<地 の順に、少しずつ余白を大きくする。 また、書店のブックプラザAZのサイトでは、(http://www.booksaz.co.jp/)「書店用語辞典」の中で判型を説明。( http://www.ne.jp/asahi/gaiki/di/lib/199x/99/99a25wrt2.html)のサイトでは藤竿伊知郎さんという方が、「野口悠紀雄氏の指摘するように、文書(文章)には適切なサイズがあります。人に伝えたいことをまとめるにあたって、冗長でなく不足もないサイズを目的別に4段階に分けます。」をもとに文章作法を説かれる。 そうか、文章によって判型を選び、また判型によって文章も規定されるのか。 インターネットのWebサイト検索をGoogleでやってみたら、「JIS規格 版型」で21件。「紙型」1500件。「JIS規格」だと43800件。絞り込みのキーワードの選び方も情報収集の為に、前もって知っていなければならない問題ですね。 でもこんな情報にも出会った。「経済三業省(旧痛産省)、日本興業標準調査会は、最近電子メールなどで頻繁に利用される顔マークの表記や用法を統一するため、JIS規格(X部門情報処理)化に乗り出し、(中略)規格成立後、これを国際符号化文字集合(UCS) ISO/IEC 10646-1(国内での規格はJIS X 0221)に追加を申請する予定。」だって。 「紙型」からWebの森の中の散策でした。書店人に取っての「判型」見えて来ません? 8月23日 昭和31年(1956年)8月23日、栗田書店の「本は頭の栄養、本を読みましょう」の宣伝キャラバンカーが全国40,453Kmを完走して帰ってきた日。出版文化の発展向上、読書推進、書店繁栄促進を目的とした、この全国ツアーは一取次の事業としては破格と注目され、書店の全国組織、小売全連(現;日書連)から感謝状が送られた。 1999年から講談社が「おはなしキャラバン隊」を全国に走らせているが、活動形態は違っていても、読書推進でもっと本が売れるように、という活動は45年前にはもうすでに実施されていた。(いつの時代になっても人間の考えることにそう大差は無いのかな?) 読書推進活動の歩みを『日書連55年史』(288P)を基に鳥瞰すると以下のよう。 1924年11月1日〜7日、日本図書館協会の読書週間に出版界が参加 1932年9月、京都書籍雑誌商組合が「雑誌祭り」を単独開催。 1933年、日本雑誌協会が「雑誌祭り」を受け継ぎ「雑誌週間」と称して雑誌展や講演会を開く。1939年の7回で戦時化により中止。 1933年11月、日本図書館協会と東京出版協会と全国書籍商組合連合会合同の「図書祭」開催。1939年に戦時化により「図書館週間」も中止。 (昭和14年は「戦争と出版流通界」の転換年かもしれない。) 1947年11月1日、第一回読書週間開催。以後毎年文化の日を挟んで開催。 1950年4月、「雑誌祭」復活。雑誌読者大会や抽選つきサービス売りをする。翌年に「雑誌週間」と改称。1954年には「読書週間」に合体し雑誌目録発行等するが、1975年で中止、分離独立し翌年から夏休みに合わせて「雑誌月間」となる。 1959年4月27日〜5月10日、「こどもの読書週間」開催。 1959年、読書推進協議会創設。 1974年、日本国際児童図書評議会、発足。 1984年4月、第一回「日本の本展」「世界の本展」開催。 1986年、第一回「サンジョルディーの日」開催。以後毎年開催。(本のバレンタインになるか?) 1987年、「本の国体-ブックインとっとり」開催。 1991年、出版文化産業振興財団(JIPC)発足。 1995年、大山緑陰シンポジューム開催。朝の10分間読書運動が報告され全国的に流布。 1996年、京都で「日本出版文化史展」開催。朝の10分間読書運動をトーハンが支援。 1998年、出版7団体が読書推進連絡会を設置。 1998年、日書連とJPICが「第四土曜はこどもの本の日」決める。 1999年、講談社の「本と遊ぼう、全国訪問お話し隊」創設、全国巡回開始。 1999年、日販が「お話しマラソン」開始、全国希望書店で読み聞かせ会主催を支援。 2000年、国連・子ども読書年。東京上野に国際子ども図書館が開館。 1985年ごろから、図書館運動と関連しながら読書運動が市民運動の様相を呈してきたようだ。でも、本屋のおやじ(店員さん)の接客が、一番身近な「読書推進」になるんだよね。江戸時代の貸本屋のおやじや、明治晩年から昭和40年くらいまでの街の本屋では、そんな「おやじ」や「おばさん」が近所のこども達の読書相談員をやってたんだから。 8月17日 昭和52年8月17日、1000坪弱の書店、八重洲ブックセンターを開設すると鹿島建設が表明。鹿島建設発祥の地の東京駅八重洲口前に、地上8階地下1階の書店を創るという。欲しい本が手に取って探せない書店の現状に、自ら創ってしまおうというわけ。
受けた東京書店組合は早速「絶対反対」を表明、早速広範囲な反対運動に入る。坪数の巨大さもさることながらオーナーが巨大建設会社であることも書店業界の危機と感じたのだろう。反対署名集めから関係省庁への請願、反対書店総決起集会の開催など。翌年3月18日に国会の超党派議員の斡旋も在り、坪数を750坪に縮小し且つ週刊誌とコミックは扱わないこと等で合意、4月8日に覚え書きを調印し、一年越しの9月18日にオープンした。 2001年春の池袋ジュンク堂書店の2001坪をきいているだけに、危機感覚も麻痺してしまったのか、今では1000坪の書店といっても近隣書店以外は聞き流してしまう。出店し放題の感もある。 書店出店の規制としては、大正8年(1919年)には新規出店に既存書店との距離制限を設けていたことがある。昭和4年(1929年)には「60m以内なら小売業の許諾が要る」となっている。(60mって本当?) 当時の書店は10〜20坪がほとんどでどの商店自身も小さかった時代だ。まあ外売り御用聞き中心で店売りは主ではない時代が長く続いていたし。 明治の終わりには5000軒位の書店数が、大正の終わりには1万軒を突破するほど書店は増え、他方で値引き販売横行で書店経営は、も楽でない時代(楽な時代ってあったんだろうか?)だったので、出店規制をしていたようだ。 戦後、1964年に紀伊国屋書店が400坪に、1966年に渋谷の大盛堂が700坪に改造、1969年大阪梅田に紀伊国屋書店がワンフロアー556坪でオープン、すぐ近くの旭屋本店は600坪に拡げ、いまや地域一番店は百坪以上が当たりあえ、郊外型も3桁の坪数が当然、と書店は巨大化していく。(詳しくは『日書連五十五年史』の「出店年表」261P。また書店巨大化の原因や功罪は小田氏の『出版社と書店はいかにしてつぶれていくか』や小林氏の『出版大崩壊』を読んで下さい。) 読書から見ると巨大書店ってのはどうなんでしょう。同じ巨大書店でも本を探し辛くすぐに出てしまいたくなる店と、広大に咲く本の花を渡り飛び続けるチョウのようにいつまでも夢を膨らませてくれる書店とが在る。棚の高さや色合い、お客さんの込み具合、本の種類や量、喫茶や休憩所の併設などなど、いろんな要素は在ると想うが、どの客層にとってはどんな書店が心地よい「買い場」なのか、書店の経営環境も加味して、適正規模っていうのはかんがえられるのでしょうか? あなたのお店の「書店の規模を考える日」ってのを「書店を思索する日めくり暦」に加えてはいかがでしょうか? 8月7日 皆さま、暑中・盛暑お見舞い申し上げます。 風鈴冷風涼音団扇・西瓜枝豆湯上冷麦酒。 八月は「暑く永い夏」でして、長崎・広島・敗戦。折しも新聞を始めマスコミでは「教科書外交問題」「靖国参拝」「右傾化」(表現が古いね〜)「ナショナリズム化」も暑く報じられているせいか、地球温暖化のせいか、連日観測史上の最高気温長期記録を更新している日本です。ほんと寝苦しくて寝不足でお昼ねタイムが欲しい今日この頃です。 昭和15年(1940)の今日、8月7日、印刷・出版・流通の戦時体制化する一元的な戦争協力組織、日本出版文化協会誕生(同年12月19日設立)が決定づけられた。東京出版協会が解散し新出版団体の決定を内定したのが今日。『出版年鑑』の昭和15年の出版概観によると、 「聖戦5年、支那事変は今や東亜共栄圏確立の建設戦となり、・・・この間にあって出版界のみが新体制の圏外に取り残される筈がない。」と。 聖戦5年とは1915年から南満州と内モンゴル東部に日本の権益を延ばし、1932年には満州国を傀儡政権で創った延長に、昭和10年(1935年)中華民国北部に華北非武装地帯を認めさせ、抗日デモや運動が激化、親日派中国要人の暗殺とそれへの報復、関東軍の武力鎮圧が起こってきた一連の武力侵攻をさす。それ以後は歴史の示す通り、西欧列強とのアジア植民地争奪武力闘争に東亜共栄圏確立を目指して突進していく。 昭和11年の2.26事件後軍部内部の言論思想統制を、昭和11、12年からは用紙高騰により用紙の価格と使用量を商工省を中心に統制配給化、資材不足による製本方法の変更(洋綴で出来ず和本が復活している)昭和13年には内閣情報局や警視庁の書籍や雑誌の検閲規制が強化されるや講談社など自主検閲部を社内に設けてもいる。昭和14年には資材不足による製本方法の変更(洋綴で出来ず中等教科書を和本でと申請している)や、日本雑誌協會は電力制限による印刷能力低下の対策を協議するとか、の動きの後の「新出版体制」が日本出版文化協会の一元統制団体設立への動きだった。実は7月末には内務省から打診というか命令というか、あって日本雑誌協會や東京出版協會は日本出版文化協会設立へ動いていた。いわば予定の工作行動ということになる。8月19日には大阪圖書出版業組合が新体制へ向けての解散合流をきめ、9月11日から10月24日まで配給機構一元化問題をめぐって四大取次(No.26参照)と卸業3団体が喧々諤々騒然唖然で決別し陳情合戦になったり、9月30日には東京の主要編集者によって新体制の一翼を担う日本編輯會を結成、と着々と統制化され、又していく。 この5年間で出版・言論の自由は制限され出版流通活動も制約統制されていく(流通の一元統制組織は日配〜No.19参照)のだが、日本軍が太平洋の真ん中のパールハーバーに大挙奇襲する5年近くも前から、印刷用紙や製本用具(革表紙のための革も)軍需用に取られ不足し、高騰する事態が発生していたことを示している。国民に(愛国心という情にに訴えて)痛みを分かつ事を強要してきたプロセスを垣間見せてくれる。 歴史上の大事件はそれが起こる数年も十数年も前から一つ一つ無関係に見える小さな出来事が積み重ねられて起こってきていることが、昭和中期の出版流通業界でも起こっていた。21世紀の出版流通も20数年前からの小さな出来事が収束して幾つかの大きな出来事になって現れてくるのだろう。あと、5年くらいで? 7月26日 昭和57年(1982)の今日、歴史教科書の記述で、日本の中国「侵略」を「進出」としたことに対して中国、韓国、東南アジア諸国がいっせいに対日批判、外交問題に発展した。 今新聞を賑している教科書問題と同じ状況(表面的には)が起こっていた。当時は教科書記述を政府責任で是正する方針を打ち出し、いわば「ごめんね。やり変えるから」で一応の決着を見たようだが、今回はどうなるんでしょうか?1980年代は政治から個人生活の享楽至上指向に向いていて、外交での弱腰も非難され難い状況だったが、国内での外人労働者の犯罪報道や失業問題等に絡んで、違った形でのナショナリズムの空気も生まれているから、同じような決着ではないかもしれない。韓国や中国の外交態度も以前よりは強硬な感じもするから、どう決着をつけるのか、あるいはつくのか予断が許されない。 見方を換えれば、1982年と2001年の教科書記述問題に対する国民やマスコミや政府の反応を比較することで、日本という国の20年間の「差」が見えてくるかもしれない。出版流通業界で起こっている様々な問題の大半は、過去百年間で数回は起こっており、その解決への議論はなされてきている。近々おこるであろう「返品率減少」のための取次の諸施策が、取次と書店の関係、出版社と取次の関係を根本的に見直すきっかけにできれば良いのだが。 余談だが、史上最暑の夏の参議院選挙の結果によっては、「痛みを伴う」行政改革が行われる事になるかもしれない。(「行政」の改革が「産業構造」の改革に代わり)この問題と関連づけると、出版流通業界の縮小均衡化に向き、4年か5年かの間に出版社も書店も資本の集中が進行し、小学館や角川書店のようなマルチコンテンツ・メーカーと都心大型書店とチェーン書店と二大取次が業界の指導権を確定し、一方で小出版や小規模書店は減少しつつ生き残りに業態をかえていくことになるンではないかと想える。大正から昭和10年ころにかけて出版社や書店が急増していったプロセスの裏返し現象が起こりそうに想える。 小さな街の本屋の「おやじ」としては、向こう5年間くらいの業界の変化を歴史と現状に学びつつ予測しながら、お客さんやクルーに必要とされる店創りの途を探さなければ、と気を引き締めた、今日でした。 それにしても、暑い日々が続きます。みなさんお体には(お店の体力・健康にも)十分おきをつけください。 7月21日 大正8年1919年の今日、7月21日、東京書籍商組合が定価販売を根幹とする組合規約を制定し、12月1日より実施と公表した。東京書籍商組合は明治20年に発足した出版社の組合で、当時は出版も販売も同じで実質的に出版業界をリードしていた。 規約は、奥付に定価を記載されながらも尊守されていない(業界内の混乱と読者の不振を買っている)という認識から「組合員ハ図書ノ定価ヲ割引シ若クハ景品ヲ添付シ其ノ他割引二関スル行為ヲ為スコトヲ得ズ」とし、組合員の発行図書の販売は組合員に限定し「定価は出版後6ヶ月以内に引下グルコトヲ得ズ」とした。11月15日には官報を始め東京朝日、東京日日、讀売、中外商業新報など10紙に定価販売を広告する。 この背景には不況や諸物価の値上げ、特に用紙・印刷の値上げがある。8月28日には営業税の累加軽減を東京税務監督局に陳情したり、大正7年9月には、板紙の暴騰抑制のために農務省に陳情、先立つ6月1日には新聞の値上げが決定されている。讀売新聞は一ヶ月60銭に、大阪朝日は75銭に、中外商業新報は63銭に、東京朝日は90銭に(大正9年には1円20銭に)と。大正8年の3月18日には東京書籍商組合が「売価を一定にする」方法を「攻究」しているし、雑誌は大正6年10月に値上げをしている。少年少女ものは12銭から13銭に、実業雑誌は13銭から15銭に、演芸ものは38銭を40銭に、と。また大正7年1月24日には東京雑誌販売業組合で、雑誌の販売割引率を決めている。定価10銭までは割引無し、11〜30銭は1銭割引、31〜50銭は2銭割引、51〜70銭は3銭割引、71〜90銭は4銭割引、91銭以上は20銭きざみで1銭割引を増やす、と。 このように不況と増税と物価の高騰に対処するために、それまでの乱売防止を呼びかけ定価販売を打ちだしていった。といってもすぐに守られたわけでもなく、以後再三、定価販売励行を呼びかけている。因に返品制度が一般化し始めるのはまだ5年以上後のことになる。 昭和後期から平成初期には出版不況とデフレ・マインドで定価販売が揺らいでいるが、読者として、書店人として、あるいは読書環境を一部に含む情報環境としての視点で、「定価販売」を考えるキッカケにでもなれば幸いです。 7月11日 大正14年1925年のきょう、7月11日、5/5に倒産した雑誌取次の至誠堂書店の和議申請が東京区裁判所で和議条件決定、成立。当面の業務継続を小川菊松(至文堂主)が中心になって引き継ぎ、合資会社大誠堂の誕生になる。
先年、大阪の取次老舗・柳原書店の破綻を想い起こす。柳原の後継会社は出来ず既存取次に取引は振られたのだろう。出版社や書店の倒産が相次いでいたときだけに業界を驚かせはしたが流通再編問題には至らなかったようだ。 『日本出版百年史年表』の大正14年8月1日の項に「至誠堂書店の破綻に伴う大誠堂の設立は雑誌取次業界の再編成の要望に発展し、」とあるから、流通ウェイトも少なくはなく即支障が発生する確率が高かったのだろう。 「出版界の不況は前年下半期(大正13年)から顕著になり」大正14年5月5日に破綻。債権者は400名を越え、5月26日書店主・加島虎吉が整理案を提示し7月11日の和議成立にいたり、8月1日には大誠堂を中心に上田屋雑誌部と盛春堂を併合して株式會社大東館が設立される。代表は上田屋書店代表の上田庄一郎氏。東京堂、東海堂、北隆館も加盟出資した。これで取次業界は東京堂、東海堂、北隆館、大東館の4社になり、日本雑誌協會も会員出版社の雑誌は直接購読者以外はこの4社を経由すべしと決定し、四大取次時代が確立される。 取次の歴史は『出版大崩壊』に詳しいが、明治20年頃から誕生してから40年くらいで四社体制が確立し同時に全国的な出版流通ルートが確立したと言える。のち定価販売への協定や返品制の拡大普及などのシステムを付加し、戦時経済体制の元で版流通業界を一元的統合する日配時代になり、戦後日配の役員社員が現在の取次(販売会社)を起こし、2社寡占体制になる。この約150年の歴史の中に現在の取次の意識や出版流通業界を変動させる機構が出来上がってきているといえる。 「取次」という言葉にしても、社名にしても変遷があります。明治の半ば頃は「取次」は新聞の「取次販売店」を意味し、本の取次は「売捌所;うりさばき、ばいべつ」と云ってました。社名も○○書店や××館とかが大勢だったのが、日配(日本出版配給株式会社)以降は○×出版販売会社となり、今はトーハンとか×○社、○○書店の混在になっています。 日本の場合諸外国とは全く異質で、書店は取次からしか仕入が出来ない流通システムになっていますから、書店も取次の歴史からも取次業界の体質や意識を知って、日頃のお付合いのバックボーンにしたいものです。 6月21日 昭和18年1943年のきょう、6月21日、日配が(No.19の5/5参照)書籍の売切買切制を実施、出版統制機関である日本出版会の指導に因ったもの。書店の仕入れ資料として現品見本に代わって『新刊弘報』を創刊した。創刊一号には7月21日から7月末迄の発売予定の新刊232点の内容紹介と重版書目222点を掲載、登録番号付きの予約注文一覧表が添付されていた。書店はこの添付注文書で予約注文し、日配はその集計分を版元から買い取り予約書店に配給する仕組みだった。(今では教科書の発注・流通が同じタイプ)昭和19年5月には『出版弘報』と改称される。昭和51年1976年に創刊される日本書籍出版協会の新刊図書情報『これからでる本』の最初といえる。 戦後でも買切り販売の普及は何度か提唱もされ実験もされたが書店の不評を買っていずれも成功していない。その前提になるのが、出版予定情報の整備だ。欧米ではプレ情報やプレ書評は2、3ヶ月前から書店に冊子配付されて、書店員はその冊子に基づいて発注している。もちろん買切り制は出版事前情報の配付整備だけではなく、書店マージン率の変更や書店人の仕入力選書力の養成など様々な条件を満たさなければかなりの混乱を出版流通に起こすが、出版予定情報の整備と公開は買切り制でなくても低返品を実現させるためにも、書店人の仕入力を向上させるためにも不可欠のものだ。 情報の創り方は技術的には簡単だと想う。編集サイドでは3、4週間前にはほとんどの原稿はデジタル化されており(版下原稿では100%近くデジタル化されていよう)編集者は内容も熟知していようから、一冊の紹介文を100文字くらいで起こし、書誌情報とともに日本書籍出版協会にインターネットででも送り込む。すると書誌データベースにもBOOKS登録が早くなる。(書誌データベースに関する様々な問題や提案は機会在ればぜひしたいですが)勿論同じ紹介文を自社のホームページで宣伝するなり取次や自社ペーパーメディアでの宣伝にも使うことも出来る。ついでに「著者の一言」とか「著者の著作紹介」「関連書や本文での引用や参考文献リスト」も紹介して貰えると、書店でのコーナー創りが素早くできるという、情報伝達でのメリットが生まれるのだが。 6月15日 明治20年のきょう、6月15日、越後長岡出身の大橋佐平さんが本郷弓町に、博文館の看板をかかげ、雑誌『日本大家論集』を創刊した。
「にほん おおや ろんしゅう」じゃあないですよ。菊版で80頁定価は10銭で即日完売、一ヶ月で4回増刷したという爆発的に売れ雑誌だった。今でも雑誌を数回も増刷するなんて事は稀なのに、です。この雑誌の大成功により出版社としての博文館の基礎ができ、大正中期には十数誌の雑誌を創刊し、図書の出版にも進出、流通面でも取次会社設立にも大きな働きをする”博文館王国”を築くことになります。なんか今の講談社や小学館を思い浮かべてしまいます。 この雑誌の内容はこうです。当時発行されていた雑誌(概ね菊版で40〜50頁定価15〜20銭くらい)から、政治・経済・法律・文学・医学・歴史・哲学などの好論文を抜粋、転載して一冊にしたもの。ちょっと気になるんだけれど、抜粋転載して著作権はどうだったんだろう?って。実は著作権法自体が無かった。(著作権法は明治32年1899年に制定される。15回4/13の項に著作権法の小史あり。)だから、ひょっとすると取り放題、ってのが当たり前の時代だったようです。 日本初の大出版社が雑誌を母体にしていたのは昔も今も変わらず日本の特徴のようです。その雑誌の売上がここ数年で実売低下して出版不況を抜け出しがたくしている、と小林一博『出版大崩壊』第一章PP34〜44で急落売上数値や部数が詳しく書き、証明されている。 書店にとっても雑誌の売上は大きなウエイトを占めているので、雑誌の質や売り方は大きな関心事です。同時に出版流通業界にとっても、また、読者にとっても、雑誌の意味は小さく在りません。ひょっとすると、今は雑誌の歴史的な曲がり角かもしれません。今一度、各々の立場で「雑誌」を考えるキッカケになれば、と想います。 参考文献
猪瀬直樹『NHK人間講座 作家の誕生』61890-49、TVはNHK教育月曜日11Pm〜11:30Pm。雑誌や新聞小説がどう読まれてきたか、書かれてきたか、がわかる。 永嶺重敏『雑誌と読者の近代』日本エディタースクール1997年7月A5判281P@3200円巻末引用文献リスト28P(これの引用文献リストが素晴らしい) <注>このシリーズは、鈴木徹造『出版界365日小事典〜明治から平成まで』日本エディタースクールと紀田順一郎監修『新版 本の情報事典』出版ニュース社『日本出版百年史年表』を核に、CD版平凡社世界大百科事典Proを始め様々な著書・資料を参考にさせていただいて、書いております。著者の方々にはこの場をお借りしまして、御礼申し上げます。(文意や解釈については小生の責に帰します)
6月5日昭和23年(1948年)の今日、6月5日。国会図書館会館が開館した。「真理がわれらを自由にするという確信に立って、憲法の誓約する日本の民主化と世界平和に寄与することを使命」として同年制定された国立国会図書館法に基づいて。平成6年(1994年)末現在の蔵書は、納本制度に支えられて、図書618万点、逐次刊行物(雑誌・新聞など)141,529種類という膨大なもの。 福沢諭吉は『西洋事情』で、ビブリオテーキ(西洋諸国の図書館)の存在を紹介、これが万人の利用に供され知的水準の向上に役立っているさまに感服したからだ。こうした刺激をうけて、明治5年(1872年)政府は旧昌平黌の地に書籍(しよじやく)館を設ける。74年これは浅草に移され浅草文庫になり、閲覧料1日1銭で開館した後、80年に東京図書館と改称、85年上野公園内に移る(上野図書館)。96年帝国議会は帝国図書館設立案を通過させ、翌年東京図書館を改組して帝国図書館設立の運びとなるが、完成をみないまま戦後の国立国会図書館へ吸収さる。 最近、図書館と出版流通業界は衝突する報道が目立つ。ベストセラーの大量な副本買いでその数十倍の読者に貸し出したり、館内コピー機を自由無制限使用させて著作権・複写権に反すると非難されたりと。図書館と書店は敵同士なのか?と声高に主張する書店主もおられるが果たしてそうなのか?それとも違うのか?今日を機会に図書館の歴史を知っておくことは有益ではなかろうか? <日本図書館史略> 1、前史〜支配階級・富裕層専用の時代〜 奈良時代〜江戸時代;寺院の蔵書、貴族や武士の蔵書・文庫、富裕庶民の蔵書の時代で読者も限られ、書物は権威ある超貴重品だった。手書き巻物タイプから木版印刷に和綴じ製本だから量産もまま成らず、江戸時代に入って読書需要が増大しても供給は絶対的に不足し余りも高価だった。 2、明治時代から第二次世界大戦まで〜国家政策・富国強兵・殖産興業之為の図書館〜 大正末から昭和初期までの読書は新聞と雑誌が中心で書籍はまだ高価なため2〜3%の読書率だった。(新聞・雑誌は40〜50%)有料で館内閲覧中心の図書館が中心で、民間では図書閲覧所の機運も出るが成功せず。そのころ東京図書館の利用者だった幸田露伴は「閲覧料も至廉、且つ急に紙を要するものには紙を与へ、鉛筆を忘れたものには、鉛筆を貸すといふ鷹揚さであった」と回想。樋口一葉は「女子の閲覧する人、大方、一人もあらざるこそあやしけれ。それもそれ、多くの男子の中に交じりて、書名をかき、号をしらべなどしてもて行にたれば、違ひぬ、今一度書直しこよと、いわるれば、おもて暑く成て、身もふるえつべし」と書き残している。江戸時代の人物研究で著名な森銑三(1895〜1985)は大正時代から昭和中期によく利用したが「居眠りをしたり、弁当を開いたりしていると、たちまち看視にみつかって注意された。あるときは印半纏で門をくぐったところ、入り口の看視に睨まれ、どうしても入れてもらえない。やむなく半纏を小脇にかかえて入ったが、寒い日だったので閲覧室で羽織っていると、看視が頻繁に見回りにくるので落ち着かず、その日は早めに退館してしまった」(『上野の図書館』2号「史談余話」)1896年には片山潜が『太陽』誌上で、図書館の数の少ないこと、有料制、館外貸出しを行わないこと、に嘆いている。 3、戦後から現在〜市民の為の図書館へ、そして個人のための図書館へ〜 終戦直後、ACC;アメリカ文化センターは全国六大都市に設け、アメリカの政治や経済、文化に関する多彩な資料を収蔵、日本人も利用できることからジャーナリストや翻訳家、編集者などに重宝された。逆に言うと当時の図書館はあまりにも貧弱で海外情報など皆無に近かった状況を語っている。(現在其の蔵書は神奈川県立図書館のACC文庫に1万点を継承して保存)アメリカが図書館の先進国タル理由は民主主義の原点となる知る自由を保証するという考え方が徹底されていたことだ。1949年のユネスコの公共図書館宣言も図書館を「教育のための民主機関」「民衆の大学」と捉えているのもアメリカの影響を受けている。日本政府は翌年1950年図書館法を公布するが、その精神を受け継ぎ「国民に奉仕する機関として、国民が何かを学ぶとき、一般的な教養を高めようとする時、何かを楽しもうとする時、これを十分サービスする図書館ではならない」と定め図書館の機能を「教養、調査研究、レクリエーションに資するため」と明記した。この楽しもうとする時=レクリエーション規定が項目に入ったため、軽い読み物や小説も収集できるようになった。戦前の図書館から見れば180度の転化でもあった。 とはいっても一般市民は図書館の利用に不慣れなため地域の図書館では手探りの活動が始まる。例えば高知市の議会図書館では、蔵書を市民に開放するだけではなく、名称も「市立図書館では官僚的だから高知市民図書館」とし、午後九時までの夜間閲覧も実施、1951年昭和26年からは市民の中に飛び込んで図書館が親しまれるようにと、自動車文庫を開始、其の車内には本だけでなく、地域巡回診療も兼ねて医療機器も積んでいた。「人の心を癒すのが読書なら、まずは身体の病気をなおすのが大切だ」が担当者の考え方だった。また農業普 及所の協力も得て、作物の栽培や病害虫除去などの農村生活の改善アドバイスも行い、読書会、映画会、地方史研究会などは年に300回も開いている。当時の図書館界は「高知に続け」を合言葉にしていたという。1963年、日本図書館協会の事務局長である有山たかしが『中小都市における公共図書館の運営』で「図書館の地域住民の知る権利を守る機関とするべく住民の資料請求の増大のために予算のを5万人に262万とする、と主張し、さらに館外奉仕への転換、児童サービスの重視、など斬新な主張も行う。そこで日野市に図書館を造ろうと、茨城県のライブリアン鈴木喜久一(当時副館長)を中心に自動車文庫(グループに貸し出しグループから個人に貸し出すという従来の方法ではなく、直接個人に貸し出す方法を採用、管理方法のシステム化が為されたはず)から始め「水道の蛇口をひねれば水が出るように、どんどん本を貸したら良い。何でも、どこでも、いつでも。」という水道方式と呼ばれた。 <図書館の分化とその特徴> 今までは市民全般を対象とする公共図書館を中心に歴史を見たが、扱う資料とサービス対象から図書館は公共、大学、専門、学校の各図書館に大別され、ほかに国立国会図書館その他がある。 1、公共図書館 その機能は、教育、調査、研究、レクリエーションに資するための施設と規定されている。一般的な読書はその4種類の読書が考えられると云うことでも在る。したがって長い間論争の的でもあったフィクションもの(読物小説,軽読書材)を公共図書館に置くことの可否も、この項があることによって是認されるようになっている。府県立図書館は調査目的を主としたレファレンス図書館、市町村立図書館は貸出しを主体とする図書館というイメージが形成されつつある。とりわけ公共図書館利用者の半数以上が児童図書利用者であるところから、最近では児童図書サービスに重点が注がれるようになってきている。 2、大学図書館 大学図書館はlibrary collegeという名称があるように、図書館が中心にあっての大学というイメージが西欧の場合強いのに対し、日本ではいまだにその名のとおり付属図書館という意識が強く図書館あっての大学という観念が薄い。また学部図書館と大学院用図書館との区別もない。 3、専門図書館 アメリカの専門図書館協会では知識を働かすようにすること「putting knowledgeto work」というスローガンを掲げている。日本では専門図書館は昭和30年代から活動が本格化し、1952年に専門図書館協議会が設けられた。専門図書館の機能としては、特定のテーマや専門的な情報資料を組織的に収集し、これを整備蓄積し必要に応じて、できるだけ速く正確に提供するための図書館。 4、学校図書館 学校図書館法第2条によって、小学校・中学校の義務教育や高等学校においては、図書・視聴覚資料を収集・整理・保存し、児童・生徒と教員の利用に供することで学校の教育課程の展開に寄与し、健全な教養を育成することを目的として学校図書館が設けられている。しかし司書教諭の配置が後退ぎみであるのと資料不足、それに図書館利用がまだ授業時間割りの中に十分組み入れられていない点などからして、スローガンほどには機能していないのが実情のようだ。学校図書館協議会は1950年に結成され60団体が参加している。 書店にとっては公共図書館のマーケットもさることながらこの学校図書館のマーケットも大きなウエイトを占めている。その点で今回の「地域環境資源共有型図書館ネットワーク」実験計画は、地方財政の有効活用(要するに金がなくなったからほとんど使われない史料は学校単位でなく広域地域で一冊蔵書し使い回しすればいいじゃないか、ということ)すなわち物流ネットワークの都合上や二重買いを防ぐためにも、多くの場合センター図書館が複数学校図書館分の購入を集約代行するであろう。すると販売側の寡占化が進むことはかなりの確立で起こる。言い換えれば地域中小書店の学校図書館マーケットが寡占販売会社にとられる可能性は高い。中小書店の対応戦略が必要とされる。現場では図書館管理のための管理を機械化するためのMARC(光学機械読取コード)と管理ソフトの連動で学情MARCと日販MARCとTRC-MARCがあり、各々資料の販売の道具として使われているのが現状である。 5、国立国会図書館 6、その他 参考文献 関千枝子『図書館の誕生〜ドキュメント日野市立図書館の20年』日本図書館協会 1986年刊 紀田順一郎『図書館が面白い』ちくま文庫=源本は新潮選書『図書館活用百科』 81年 海野弘『日本図書館紀行』マガジンハウス1995年 前川恒雄『われらの図書館』筑摩書房1987年 高橋元夫『子どもと本をつなぐ-学校図書館の可能性』岩波ブックレット1999年 63P 辻 由美『図書館であそぼう』講談社現代新書1999年219P 大阪府高等学校図書館研究会講演メモ「読書の未来と出版・情報流通の変貌」 2001年 5月27日 図書館蔵書封印事件!図書館の自由は?読む権利は? 昭和29年(1954年)の今日、5月27日、図書館の自由に関する宣言」が全国図書館大会@大阪で採択された。これは昨年(昭和28年)山口県立図書館で、共産党幹部の著作50冊以上を封印して読者に閲覧できなくしていた、という事件が明るみに出たため。 当局者は「中立性を欠くような本は抜き出すのは当然」という立場をとっているが、図書館は読むことに自由を前提としている、という考え方で、この宣言採択となった。 昭和54年(1979)には「図書館の自由に関する宣言1979年改訂」を可決、承認するとともに「知る自由を保証するための図書館の任務に関する声明」を発表している。内容は、図書館は基本的人権の一つとして、知る自由をもつ国民に資料と施設を提供することを最重要任務としており、そのために、1>資料収集の自由。2>資料提供の自由。3>利用者の秘守。4>全ての検閲に反対する。 これらが犯される場合は図書館が団結して自由を守ることも謳っている。これは70年代に入って図書館利用者が増えるにつれて図書館の自由にかかわる問題が出始めたことが背景にある。その根底には高度経済成長による財政収入の増加と出版点数の増加による公共図書館と蔵書の増加が在る。 個人情報保護法に対してはまだなんの声明も発していないが、未成年犯罪者の写真公開問題など、図書館界なりの自由を守る活動をしている。 私たち書店人も「書店の自由」も含めて図書館というモノを全体的に知って下さい。単に販売先とだけ考えないで。 ----- 参考になる本 ----- 1>本の雑誌編集部『別冊・本の雑誌13・図書館読本』本の雑誌社2000年1月刊行A5判173P@1500円ISBN4-938463-85-7 c0095 身近かな公共図書館のルポで若葉書店人に最適。「1日図書館員体験記」で、ふ〜ん図書館ってこんな仕事をするんか、と感心し、「図書館員採用試験問題を作る」では、ポータブル端末を片手に3時間休み無しでコードを読み取れる、なんて書店と同ンなじじゃん、私にも出来るぞ、と胸を反らせ、「図書館の歴史」で紀田順一郎先生の授業を受け、すこし眠くなり、「食堂ちょっと訪問」でカレーライスもスパゲッティーも370円、えっ?や、安い!とよだれを流し、「全国図書館リクエストランキング」で、おいおい書店のベストリストと全く一緒じゃない。「複本の謎・複本購入ベストランキング」に至るや、本屋の的じゃ〜!と過激になり、「異色図書館探訪」で、ふう〜ん?いろんな図書館が個性を競ってるんだなあ、と行ってみようかと想い、読み終わった時には、もういっぱしの図書館事情通を自任していた。っていう本。 2>辻 由美『図書館であそぼう』講談社現代新書1999年5月刊行219P 公共図書館を個人として如何に使うかを教えてくれる本。 3>高橋元夫『子どもと本をつなぐ-学校図書館の可能性』岩波ブックレット1999年10月A5判63P 学校図書館、特に小学校の事情が概観できる好書。市川市の公共図書館と学校図書館のネットワークは2001年の図書館環境資源活用型ネットワーク実験(予算8.2億円全国47地区で米子市や京都府南部町村などで実験予定)のアイディアの原形になったかも。 4>尾下千秋『変わる出版流通と図書館』日本エディアタースクール出版部1998年8月刊行A5判136P巻末に事項索引4P参考文献3P 著者は図書サービスから図書館流通センターに従事された方。書店人は一読を。 付録。百科事典の元祖は?明治38年ドイツなどの百科事典をモデルに同文館から『大日本百科辞書』全28巻の1巻目が刊行されたのが始まり。明治29年創業の同文館の社主・森山章之亟による。内容は商業、医学、教育、法律、哲学、工業、経済、農業の8分野で、この百科の連続刊行の膨大な経費で同社は大正元年に破産、博報堂社長の瀬木博尚や明治書院の三樹一平らにより大日本百科辞書刊行会が設立、大正5年1915に完結、森山氏の没後だった。 こりゃ〜偉業だね。どのくらい売れたんだろう?今も残っているんだろうか? 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| 5月15日 書店販売用ビデオソフト『ビデオ版映画全集』が角川書店から発売されたのが昭和59年の12月。以来各社からビデオソフトを書店ルートで流し始める。いわゆるセルビデオの書店ルートが確立されることになる。その流れに呼応するように角川書店・学研・講談社・小学館・徳間書店を発起人に、旺文社・音楽之友社・光文社・主婦の友・中央公論・マガジンハウス・岩波書店・新潮社が出版ビデオ懇談会を発足させた。この動きによって本以外の非再販商品でも書店ルートで流通販売すれば流通コスト30%で定価販売が可能になった。映像部門を手がける出版社では、このころから現在の出版メディアの激変は戦略の射程に入っていたのかもしれない。 翌年には日本電子出版協会も発足、新潮社が文芸のカセットブックをヒットさせ、講談・落語から対談、ビジネスマン向けの教養実用モノが続出。商品ラインナップは拡大されていく。 90年代半ばにはマルチメディアブーム期には出版マルチメディア研究会と改称し、新しいメディア出版の開発に関する情報交換や流通面での販売普及活動を目指していく。 一方、80年代に出現したレンタルビデオの定着がセルビデオのマーケットを支え、アダルトモノを中心に出版社=取次=書店の流通ルートが確立され、洋画邦画アニメと種類を増やしていく。取次もビデオレンタルやセルビデオ、さらにCD-ROM、パソコンソフトなどマルチメディアやニューメディア商品という触れ込みで配下書店にプロモートしていく。出版流通ルートでは初期にこそ扱い高は延びるが、書店ルートは「再販」による「定価販売」の習慣が堅く、家電販売店やディスカウント店との価格競争により頭打ちとなっていく。 ソフトメーカーや出版社はこの定価販売とマージン体系による流通の安定性を期待してのことだったが、冊子体でないことや量販のために他流通業界にも流すことで二重・三重の流通体系を使い分けることになる。 おりしも同時期、書店業界では郊外型書店の出店ラッシュとあいまって本専業の書店から本以外の商品も積極的に扱っていく複合型郊外書店の展開となる。大半の複合郊外店は取次に仕入と金融を依存したが、なかには独自仕入を試みる書店も出始める。ビレッジバンガードのように取次に取引を断られた店が雑貨ルートや玩具ルートなどと取引し独自の販売路線を書店業界に提示することにもなる。 1995年ころになるとインターネットとパソコンの低価格化で、デジタルコンテンツという新しい商品とインターネットという新しい流通ルートが一般化の兆しを見せ始めるや、85年来の縦型流通出版社=取次=書店の流通ルートの統制が揺らぎ始める。 この一連の本以外の商品の出現と流通ルートの変動は、1980年代中ごろ、今から25年前から始まっていたことになる。と考えると、いま起こっている様々な現象のなかにこそ、20年後の出版流通システムの姿を予知させる現象や情報が含まれていることになる。 |
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| 5月5日 昭和16年のきょう、5月5日、日本出版配給株式会社が設立。昭和17年の「出版物ノ撥行・販賣及用紙割當機構圖」(書籍年鑑昭和17年度版)によると、日本出版文化協会が出版の企画や発行、用紙の割当通知などで出版社の活動を統制し、流通は「配給」と称し日配に配給指導する。それに従って日配は書店へ本を配給する。(今は送品と言うが、書店の「仕入」とは云わない。)同時に各地の書店組合にも指導監督し小売書店を統制していた。いわゆる出版流通システムの一元統制システムである。 この一元統制システムはどのようにして生まれたのだろう?何もないところにポッと出てきたのだろうか?否!モデルがあった。満州書籍配給KKだ。大正9年3月6日に満州書籍商組合を設立し、日本からの和書輸入と中国関係書の出版と取次を一手に行い満州各地の小売書店に取り次いでいた。輸送コストなどによる植民地定価の問題やマージン問題もあって、満州組合は一元化するメリットもあったようだ。昭和5年には満州書籍雑誌商組合と改称。昭和13年3月16日可決の国家総動員法に呼応して昭和14年12月30日満州書籍配給会社に集約され、出版物の植民地での流通を一元的に統括管理した。この独占仕入による書店への支配体制は支配力においても物流的にも効率良く、国内の支配統制の良いモデルになった。 敗戦後昭和24年3月にGHQより閉鎖解散され、閉鎖機関の引継の後、同年9月6日に日配大阪支店を中心に大阪屋が、9月10日に日販が、9月19日に東販が、9月20日に日教販が、9月28日に中央社が、次いで北海道図書、京都図書、九州出版と設立され、倒産や吸収の末現在に至るが、日配の役員や中心的活動を行ってきた人々が各々設立していく。流通システムは日配のミニチュア版であり、 「統制」とは云わないまでも出版社や書店への支配力(交渉力?)を強め利益性と効率性を高める点については質的に代わっていな い。「配給」が「供給」や「配本」に代わった様に業界用語の多くにその意識は残されている。 この一元的流通システムは先進諸外国では見られない。(再販制度の在る無しにかかわらず、取次の出版流通のシェアーは50%までのもので、残りの50%は出版社から書店に直接取引されている。) 出版社も取次に販売と金融を頼り、書店も仕入と金融を任せきった結果、昨今の出版不況の根底に在ることは、小林一博氏も『出版大崩壊』で、小田光雄氏も『出版社と書店はいかにして消えていくか』でも指摘されている通りである。 このように一元的統制支配意識(護送船団+他力本願意識?)は今の取次にも出版社や書店にも残り生きているようだ。日本の国民性にマッチしていたのかもしれないが、欧米の出版社や書店との本質的な違いを創っているように見える。出版業界人としての意識問題は常々気になっていてついつい筆が滑りっぱなしたが(スベッテコロンデシマッテルって?)業界の地殻変動激変期の今だからこそ、個人レベルの職能意識を高めねばならないと切望しているので、この日販のシステムは今の出版流通の原点になるだけに、戦後生まれの業界人が増え忘れ去られては事の本質が見えなくなっては、表面的な議論を繰り返して傷口に絆創膏は張れて出血は止まったかに見えても、抜本的な治療にはならない。この点もきっちり押さえて現在の業界常識をもう一度吟味検証しつつ、書店人、出版業界人への研鑽をしていきたい。です。 参考文献は、小田光雄著『出版社と書店はいかにして消えていくか』ぱる出版。詳しくは荘司徳太郎・清水文吉編『資料年表・日配時代史-現代出版流通の原点』出版ニュース社1980年10月刊B5判264P@4200円(絶版の可能性も在り図書館での蔵書確立も低いが本の学校・郁文塾の図書室には蔵書されてある。) |
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4月30日 昭和25年のきょう、4月30日、公共図書館の運営を定めた図書館法が公布されたのを記念して、図書館記念日に決めました。誰が決めたかというと日本図書館協会です。続く5月を図書館振興月間ともし、この日に『図書館白書』が出版されました。 |
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| 4月28日 昭和58年のきょう4月28日、日本編集製作会社協会が設立。企画・編集・制作を業とするものが直面する問題解決と将来の展望を開拓する活動を目指して。具体的には、適性料金の設定や編集印税制の定着と普及を協議。 雑誌創刊ブームと第二次オイルショックによる出版社の製造原価を中心とするコストダウン指向のため、昭和55年頃から、出版社から取材・編集・制作を請け負う編集プロダクションが活躍を始め、今や編集プロダクション無くしては出版界は成り立たないまでになっている。昭和55年から57年ころは、出版社の編集料金の買い叩きが起こっていたのか、かなりの低料金が横行していたようだ。それに耐え兼ねての動きといえる。 「本」の値段の内訳は、製造費50%出版社15%取次12%書店23%といわれているが、この製造費は用紙印刷代と製本代と印税と編集者人件費(これを含む場合と別計上する場合はアル)に大別される。それぞれに携わる会社や人々が生きていて、様々な相剋や悲喜こもごもの世界がある。編プロ協会の設立も、そんな出版流通業海に浮かぶ氷山の頂上だ。 日々入荷する本たちを手にして、そんなことをふと想ってしまいました。 参考文献としては、編集段階での現状は小林一博著『出版大崩壊』イーストプレス2001年刊のP1とPP66-69に、編集問題に関しては佐野眞一著『だれが「本」を殺したのか』の3、5章が参考になる。雑誌では『編集会議』コード17981がある。 |
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| 4月24日 地方小出版流通センター開業 昭和50年2月25日。その合言葉は「出版表現の自由は、流通の自由があって初めて保証される」を合言葉に開業。設立は昭和50年2月25日。扱い出版社は850社、現在は1000社を越える。 昭和50年に、埋もれた良書の掘り起こし運動」が提唱され地方出版物展示即売会が盛況に終了したり、東村山市立図書館が地方出版物目録1977年版を作成出版、という背景があったと聞く。 流通システムのメインとしてカバーしたのは初めて。取次経由で流通しているが仕入正味は割高になっている。 取次が商売にならないと切り捨てた出版社の本を扱うルートを作ったという意味は大きい。現行取次が出版流通の80%以上を扱い、出版社も書店も取次経由でないと本は流れないと考える限り、取次が扱うかどうかが流通するかどうかの鍵を握る事になる。取次と出版社との関係実態は小林一博『出版大崩壊』イーストプレス刊2001年4月に詳しいが、取次の云う「取引は個々」に条件が違い、弱小出版社は取次の出す条件(扱い手数料の%、仕切り価格〜定価の63とか60とか、支払い期間の長さなど)に耐えられない場合も多く、そのような場合に取次とすでに取引をしている(帳合をもつ)出版社の名前で発行される場合も在る。星雲社のような販売専用出版社である。 書店でも同人誌や自費出版本など、販売会社(取次)の扱わない本を独自で集めて販売しているところも在るから、書店サイドでも掘り起こしは可能だ。この場合は直取引になるが、取次ルートより早く(宅急便を使う。運賃は大半が出版社持ち)仕掛け率も70や55と低い場合が多い。確かに大して売れるものではないが地域限定出版物や顧客つなぎ止め策としても店内の数%(棚で1、2本)さくことは必要。管理が煩雑になるとか、返品が紛らわしいとか、扱わない理由を挙げるが、実際にやってみればそれらは全て「したくない言い訳」に過ぎないことが体験できるだろう。個性在る書店創りの商材として見逃せない。 参考文献、小林一博『出版大崩壊』イーストプレス刊2001年4月 佐野眞一『だれが「本」をころすのか』プレジデント社2001年2月の第4章。 |
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4月13日 著作権の集中処理機構 複写権センター設立へ 昭和62年(1987年)の今日、4月13日。大学や研究所、企業で横行するコピーの対策として、複写利用者に対して許諾手続を簡素化するため、著作権の集中処理を設立する委員会を、著作者・学協会・出版社の12団体で発起。平成3年(1991年)9月30日に設立された。翌年4月1日から受付開始するが、平成6年2月までに2030社が登録し1012件が契約、90%が企業。契約金額は1.4億円。1988年の書協調査では、推定だが年間でコピーは14億枚、出版物で3683万冊、金額で349億円が無断コピーされていたと。 |
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| 4月1日 3月は、あっという間に過ぎて行きました。教科書を販売している書店では(取次って言います。因に「本」の取次=販売会社=に当たる教科書販売会社は「特約」と呼び、各都道府県に一つづつ設立されています。といっても東京都だけは人口が多いためか3つの教販が在ります。)教科書を扱っている書店ではお花見は学校で行います。お茶ケとホカ弁で、校庭の端の桜の幹に腰掛けてバイトも一緒にノンアルコール・パーティー、です。でも心なしか、花びらが白っぽくなっていくように想えるのは、ボクが歳を重ねたせいでしょうか。いえいえ教科書供給業務は命を削るカンナのようだからかもしれません。 そんなこんなで、3月の「出版流通きょうはこんな日」を3回もサボってしまいました。でもって、お隣の韓国でも中国でも、日本の教科書検定を巡って新聞紙面をにぎわしてもいますから、教科書のことなどを調べてみます。 明治37年の今日、4月1日。小学校の教科書が検定制から国定制に代わり、まずは修身と国語と地理と歴史の国定教科書が使われた、のが今日だって。 じゃあその前は「検定制」で、明治19年、初代文部大臣・森有礼さんが、それまでの認可制を改め「教科用図書検定条例」がそのはじまり。 じゃあその前は?届出制だったようです。今のような学校制度は明治5年から始まったらしいんですが、当時の政府は金がない。教師もいない。無い無いづくしだけど近代国家を装いたい。そこで、全国の寺子屋も小学校にしちゃった。もちろん教科書も揃ってない。当面は寺子屋の師匠に任せて、教師の大量育成や教科書の政策と物流などを整えていく。日本の近代出版業界はこの教科書需要を基本に生まれたようなもので、全国一斉に類似の教科書(「本」)を読むことで世界有数の識字率を達成し、全国民が読者という膨大な読書人口を生む事になります。ですから日本の近代出版流通の黎明に「教科書」は大きな役割を果たしたと言えます。 では、なぜ国定制にしたんでしょう?その裏には痛恨な事件が在りました。 去る2年前の明治35年です。検定済み教科書の学校での使用決定(これを採択と云い、その一覧表は注文表ではなくて確定採択表と云います。)のために出版社が賄賂を送り、国会でも問題になり140名余りの逮捕者をだすという、教科書疑獄事件です。翌年には各県に教科書Gメンも配備され賄賂監視に乗りだしたが、今回のように(平成13年1月20日報道)新しい歴史教科書をつくる会が2002年度用の歴史の他社発行の教科書を誹謗中傷する文章や本を各地教育委員会に配付し、大学教授らが独禁法違反と申告したように、(2002年度使用教科書の決定は2001年の夏に行われる)自社の教科書が採択される(使用されると言うことで必ず売れると言うことを意味する)ことは出版社にとっても大きな売上保証となる。利幅は薄くとも。だから少々のことでは採択合戦の過熱化や行き過ぎは今も続いている。そこで「国定」にすると賄賂も防げると考えられたのでしょう。まあ、この事件を表の理由にして、国語や歴史や修身(思想・哲学の生き方考え方系)を単一に統制すれば、検定という或る幅とはいえ、多様性を認めるよりも民衆を統制しやすいのでは?と考えたかもしれません。 戦後、昭和24年には「国定」から「検定」に改まりますが、特に歴史教科書の内容を巡って今も問題にされ続けています。 まあ、教科書の記述も問題とは想いますが、学校教育の現場で教科書だけで教えているわけでもあるまいに、教える先生が多様な視点や資料を素に教えれば、思想統制の影響も和らぐんじゃないかと想うんですが。最近の先生方の読書率も落ちているようですから、そうだとちょっと問題が深刻に思えてきます。まして、インターネットを使って「知識」を「情報」と称して素早く入手閲覧しようという、「総合教育」を読書経験や思索経験の浅い人が手軽さやスピード優先に教えるとなると、そら恐ろしくもなります。そんな教育訓練で育った人がバイトに入ることも、その時の教育指導の方法も改訂しなければなりませんね。 |
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| 3月17日 昭和34年3月17日(1959年)、『少年マガジン』と『少年サンデー』が創刊された。『ジャンプ』に『チャンピオン』『キング』と続き、さらに少女週刊誌の創刊を誘発することになる。そして月刊の少年少女向け雑誌の廃刊へ。また本格的な週刊誌時代を到来の鐘を鳴らした。 漫画週刊誌の登場は、貸本需要を奪う。貸本用漫画が週刊誌へも進出。おりしもTVの普及は子供たちはもちろん工場労働者や店員に受け入れられ、生活サイクルが月刊から週刊へ代わり始め、高度経済成長全盛化でスピード信仰も拍車をかける。しかしすぐに週刊誌全盛に成ったわけではなく、創刊当初は10〜20万部で付録も付けられたというから、月刊誌との競争に苦労していたようだ。月刊誌と交代するのは38年以降という。 この週刊誌化現象をどう解釈するか?ここに、歴史を活用するヒントが隠されているように想える。 低単価多量販売で売り上げ向上への途が出来た、ととらえるか?。時間を待てない読者を満たすための需要対応で新しい漫画の歴史の幕を切っておとした、ととらえるか?。雑誌の消耗品化に拍車がかかったととらえるか?10回での『週刊新潮』創刊の処でも述べたが、取次が週刊誌専用陳列台を作成して対応しようとしたが、出版社や取次や書店が、スピード化といつでも要求される利便性と低価格が考慮されれば、駅売店やコンビニで週刊誌が大量に買われることは、論理的に導きだされた未来だった。今から想えばだが。このように歴史的事実を長期間テーマ別に時系列で眺めつつ読者の要求性向、ニーズのトレンドやウォンツの長期的な変化や不変要素を重ねることで、ひょっとすると、今巻き起こっている「本」のデジタル化やそれから引き起こされた(と言われている)出版流通システムの激変の未来も、あるいは見えてくるかもしれない。 参考文献>串間努『少年のふろく』光文社2000年11月25日B6判293P巻末に参考文献や資料「雑誌付録規定」省「国鉄との付録折衝年表略」「雑誌協会のふろく雑誌作成上の留意事項」など19P <注>このシリーズは、鈴木徹造『出版界365日小事典〜明治から平成まで』日本エディタースクールと紀田順一郎監修『新版 本の情報事典』出版ニュース社、『日本出版百年史』を核に、INET出版ニュースHPやCD版平凡社世界大百科事典Proを始め様々な著書・資料を参考にさせていただいております。著者の方々にはこの場をお借りしまして、御礼申し上げます。(文意や解釈については小生の責に帰します) |
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| 2月26日 昭和43年(1968年)のきょう。出版4団体は出版物公正取引協議会を再販危機の回避を目指して発足。 出版4団体というのは、書籍出版協会、雑誌協会、出版取次協会、書店組合のことで、日本の出版流通業界を日本政府や国民、さらに外交にも代表している。書店の組合はこのころは「日本出版物小売業組合全国連合会」=小売全連と呼ばれ、今は「日本書店商業組合連合会」=日書連と呼ばれている。この辺のいきさつは目下、小林一博氏を中心に日書連55年史を編纂中に明らかにされよう。 この協議会を創ったのは、昭和41年末の朝日新聞が「公取委が全集モノを再販制度から外す」と報じ、翌年3月に「再販規制改正法案」が発表。其れに対して再販制度を守護するためだ。 今年の3月にも「再販制度撤廃」判決?が出るが、30年にすでに起こっていたのだ。いやもっと前からあったらしい。ここで能勢仁氏と星野氏の「再販年表」を付すので、いつごろから?何故?再販問題(言い換えれば定価販売問題)が起こってきたのか?そして、定価販売の功罪を考える機会にしてほしい。 注1>再販(再販売)とは、出版社が値付けし、取次(販売会社)に売る。これが販売。次に取次が商品の最終売価は変えず書店に売る。これが再販売。メーカー段階(出版社)で最終売価が定められているので「定価」。書店はお客に売るから、出版社から見て「再々販売」となる。 注2>再販制度の種類は、法定再販(法律で定められた商品が対象)指定再販(監督省庁-公取委が指定する商品が対象)重みに大差あり。時限再販(発売後何年かは再販だが、何年か後に再販でなくなる)部分再販(再販商品の一部分が同時期に再販でない、混在状態)値幅再販(定価の何%かの幅で自由に売価を決めてよい、仏国は5%の値幅) 〜〜〜〜〜 年譜解説 〜〜〜〜〜 1919年(大正8年) 雑誌(2月)、書籍(12月)より定価販売実施。東京雑誌販売業組合、東京書籍商組合、大阪雑誌販売業組合等。 利幅の確保のために制定され、安売りにはペナルティーが組合から有。 1947年(昭和22年)独占禁止法の制定 1953年(昭和28年)書籍・雑誌・新聞・レコード法定再販となる。この間は定価の無い時代だが、実際は、商品自体が少なく良く売れ値引きの必要性もなく、定価が守られている。 1956年(昭和31年)公取委の指導で、出版社ー取次、取次ー小売書店間で再販維持契約を実施。 1967年(昭和42年)再販本部は図書月販に対し、割引販売に付き再販違反として違約金75万円を徴収。百科事典が売れた時代。この頃から再販に目を光らせ始めた。 1976年(昭和51年)公取委「再販制度の観点からみた出版業の実態調査について」のアンケート調査を実施。 1978年(昭和53年)公取委の橋口収委員長が返品のムダが多いこと等を理由に「出版物の再販見直し」を発言。業界騒然となる。「出版物の再販見直し」の骨子は、 1、委託制度が返品を高め、出版社が返品を見込み、定価に転化し定価が高くなっている。資源の無駄遣いでもある。 2、オーダー感覚が無い。客注に日にちがかかり過ぎ。 3、書店に個性がない。4、書店人に商品知識がない。 すべて定価に守られているかで、良いように見えるが研究しなくなる。定価を決めている出版社は、本は安ければ売れるという商品ではない、と。取次は他社の様子をみて動かなかった。そこで橋口委員長は「出版社は努力していない」と談。業界は「業界の混乱、流通の寡占化(大書店主義になる)、中小出版社が成り立たない」と反論。 1980年(昭和55年)公取委の指導で法定再販はそのままとし、「部分再販」と「時限再販」制導入される。新再販制度の発足である。法定再販の対象は、雑誌、書籍、新聞、レコードだったが昭和40年代にテープが出現しレコードに準じて再販化。昭和50年代にCDが出現しレコードに準じて再販化 1988年(昭和63年)臨時行改審が「再販ついては今後、再販のあり方について検討すると」報告。以来、再販見直し論活発化。 1991年(平成3年)公取委「政府規制等と競争政策に競争政策に関する研究会」(座長、鶴田俊正研究会)がCDの見直しを打ち出す。 書籍・雑誌・新聞は基本的に再販を認めている。 1992年(平成4年)CD時限再販制導入。 1993年(平成5年)細川内閣成立。規制緩和浮上。通産大臣橋本龍太郎。日米構造協議 1994年(平成6年)村山連立内閣成立。政府は法定再販の著作物の限定・明確化を98年までに決めることを閣議決定。具体的な検討を進める為「再販問題検討小委員会」(金子晃小委員会)発足。高い定価の本を買わされていないか?「再販問題検討小委員会」は中間報告を出して解散。この動きに目を付けたのが、ブックオフ。再販制に対する危機感が高まる。文芸家協会では、印税制(作家の生活基盤)の崩壊感や小部数出版の著者は書けなくなるのではと危機感が高まる。アメリカの大型おもちゃチェーンのトイザラス日本上陸でも分かる日米経済構造協議が底辺にある。 1995年1月(平成7年)自然科学書協会「再販制廃止に反対する」声明。 95年2月 書協、雑協が「出版物再販制の意義」を公取委に提出。取協、意見書を公取委に提出。金子小委員会・出版・レコード・新聞業界からヒヤリング調査。 95年3月 村山内閣「規制緩和推進5ケ年計画」明確化。98年末までに「著作物の範囲の限定、明確化」を図る。 95年4月 上記の著作物の件、97年度末に繰り上げが閣議決定される。行革委の下部機構として「規制緩和小委員会」設けられる。文部省、文化庁、書協、雑協、新聞協でつくる「活字文化に関する懇談会」が発足。初会合で再販維持の協力を確認。 95年7月 金子小委員会が『中間報告』発表。「著作物の再販制は今日では存続の合理的理由がなく、弊害もあり見直しが必要。 95年中に国民各層の意見を聞き、96年の早い時期に小委員会を再開して最終報告をまとめる」と発表。業界は驚きと同時に猛反発。書協、雑協、新聞協、出版労連、新聞労連等から反発意見続出。活字文化懇も反論発表。『中間報告』の骨子は、 1、独禁法の適応除外に例に入っているが、単なる習慣に過ぎず法的根拠は無い 2、再販継続は、価格やサービス面で読者に不利益な制度。 3、流通システムは固定され、読者を忘れたシステム。 4、業界は、定価が文化の普及のためというが、本だけが文化ではない。そこに根拠を求めるのは矛盾。 5、書店は金太郎飴で不勉強だ。「代替性の無い商品、多品種」と言うが、言い訳に過ぎない。 95年8月 文芸家協会が「再販制度の見直しと文芸家の立場」を関係団体に送付、見直し反対を表明。 95年11月 日書連、反対全国大会を実施。島村文部大臣「再販制は国民生活に必要」と見解発表。 1996年1月 橋本内閣成立。公取委「規制緩和に関する施策の検討状況の中間発表」で再販廃止の意見のみを政府に提出。 96年2月 金子晃氏、出版・新聞業界の主張を「既得権益擁護」とする批判論文を発表音楽文化懇、レコード、CDの再販擁護総決起大会を実施。出版業界2回目のパニック。 96年4月 「再販制撤廃に反対するアピールをひろげる会」が「言論・文化・芸術を守る音楽と講演の夕べ」を九段会館で開催。井上ひさし氏他多数文化人が参加。 96年6月 橋本首相、個人的意見として、再販支持の考えを表明。与党三党幹事長の会談で「特に再販制度を見直す理由はない」と見方で一致。公取委、大幅な人事移動と機構改革。 96年10月 「金子小委員長は、理論的な側面からの検討は一段落」との見解で、議論の場を親研究会の鶴田研究会に移すことに決定。 96年11月 文部省、再販存続を求める声(団体・個人から163通)公表。行革規制緩和小委員会報告書最終案を決定。それまでの「再販制度を平成9年度末までに廃止すべきである」という表現を「さらに広く国民の議論を深めつつ、結論に向けた検討を進めていく」と改めた。 1997年1月 鶴田俊正教授『規制緩和』筑摩書房を発刊する。 業界荒れる。根来公取委員長、著作権再販について「中間報告は尊重するが、さらに1年かけて鶴田研究会で検討してもらう」と発言。『規制緩和』筑摩書房、発刊のいきさつは、丸善から10月か11月発行の予定で編集も終了していたが、営業部の意向で出版不適切と判断。原稿を著者に返すが鶴田教授は「自費出版をしてでも出すよ」と意志堅く出版の自由という観点から、筑摩書房で発行。筑摩書房は業界から突き上げを受ける。なかには不売運動も一部あったようだ。『規制緩和』では再販制度の歴史的使命は終り、今や消費者利益の確保からみて時代遅れになっている、と主張。日書連の総決起集会を批判。自由な競争では文化を守れない、としか主張せず、他の場合に目をつむると批判。 97年2月 公取委、記者会見で、鶴田研究会にあらためて江藤淳、内藤克人、清水英夫氏ら学識経験者を委員に加入、2月25日に再開する旨発表。清水英夫氏は前青山学院大学教授で出版学会の元会長。鶴田研究会の委員は17人で再販撤廃論者は12〜13人。 学者は再販は不都合、消費者利益にならずと考える。 97年2月 公取委、鶴田研究会再開。座長問題で紛糾。鶴田氏は再販撤廃論者で、座長には、公正さに問題有りと。 97年4月 鶴田研究会再開第二回会合。出版業界四団体からヒヤリング。 97年6月 規制研、再販撤廃派=経済論、再販維持派=文化論で意見かみあわず。 97年7月 雑誌、書籍分離の意見出る。雑誌は学術系を除いて、古くなると意味が無くなるので書籍とは性質が違う。諸外国の書店では雑誌を売っていない。という理由で。 97年9月 業界四団体、消費者団体を交えシンポジュウム。 97年10月 公聴会開かれる。平行線のまま。 97年12月 規制緩和小委員会の最終報告を受けて、行革委が12月18日までに最終意見「著作物再販制度を維持すべき相等の根拠 無し」を総理大臣に提出。 1998年3月(平成10年) 公取委が「一定期間後に結論とし、再販制度の弾力運用6項目の弊害是正措置を発表。一定期間とは?と憶測が翔ぶが3年後だろうと公取委は臭わす。『週刊ポスト』の時限再販化や謝恩価格本フェアーなど弾力運用が相次ぐ。 1999年、公取委「著作物再販制度下における関係業界の流通・取引慣行改善等の取組状況等について」を発表し、出版社が再販契約によって書店のポイントサービスを阻害することは独禁法上問題、と表明。 2000年、出版4団体で構成する再販売価格維持契約委員会を、公取委の指導で、出版再販研究委員会に改称。業界は意見書や請願書を政治家や政党、各委員会に提出。公取委と出版界の再販対話が6回開催。公取委は「著作物再販制度の見直しに関する検討 状況および意見紹介について」を発表し、広く国民の意見を求める。インターネットでも。 2001年、業界は業界関係者に意見書を出せと要請。 かなり長いですが、こうして見てくると結構面白いですね。 参考文献>『月刊本の窓2001年3・4月号』小学館と能勢仁講演録。 |
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| 2月16日 2/16 共通雑誌コードが誕生。 昭和62年(1987年)の今日、2月16日、共通雑誌コードのために管理センターが発足。雑協、取協、日書連の三団体で。 雑誌のコード化は昭和28年頃(1953年)から東販内部ではIBMナンバーを使って、送品計算や返品統計の合理化に使っており、昭和43年からは現品に表記もされ始めていたが、創刊雑誌の続出で同じコードが複数誌でたり体系に矛盾を起こしていた。そこで、コードの配付を「センター」で一元管理して矛盾を起こさぬようにと設立された。 センター設立まで34年、さらに普及に2、3年かかっていることになる。今も書店のPOS機器普及を進めつつ、その効果を高めるべく努力されている。商品コードというと、書籍はISBN、雑誌は雑誌コードが付けられているが、コードの書店での役割と意味を考えてみよう。 コードを付ける目的は、機械で読み取れるようにすることだ。機械で読めれば、販売データを自動処理できる。スリップと台帳を使って販売データを取り、書店は台帳で在庫調整をし、出版社は郵送されてきたスリップを集計して、重版時期と部数を決める。人手がかかり経費もかかり、遅く、転記ミスの可能性もある。それらを防ぎうるのがPOS=EDIシステムで、そのためにはマーク(MARC;機械読取文字)が必要で、多くは数字や模様を使って光学読取機が読み取れるようにする。雑誌なら01001なら雑誌台帳(データベース)の「小学一年生」に連結するコード(cord)となる。このコードがマークに使われる。シンボル(形;表記)はバーの形やOCRの形(ISBNで使われている字体)がある。 コードやマークが業界で統一され、各書店にPOSが配備され、電話回線で販売商品のマークとコードと販売冊数が送られると、手作業での販売データの送付と同じ役割を果たす。だからPOSの読み取り機で本をピッとやると、販売データが取れレジに表示もされデータも貯まり電送もされ、人は楽になる訳。 でも、「楽」は両刃の刃でして、レジ業務が「POSでピッ」で済むと思うと、レジ係はPOSの読み取り機操作ロボットに成ってしまう。雑誌の定価や発売日も覚えるチャンスを無くす。引いては商品知識は勿論、自分の扱っている「本」という商品を慈しむ気持ちも失せてしまう。怖いのはその本を買う人の気持ちを推測できなくなる事だ。「この本のPOP描いて」って言われても、何も思い浮かばなく、書名と値段と著者名しか描けなくなる。 だからデータ管理は、得意な機械に任せて、商品知識やお客観察は別に研鑽しなければならい。書店の教育システムもそれに合わせて変更実施していまねばならない。そうしてこそ、データは活かされ、データ管理のためのPOS=EDIシステムも意味を持ち、その大元のコードも生きてくるンじゃないでしょうか? <参考>1980.1.17. 出版4団体・国立国会図書館・日本図書館協会と有識者で構成する日本図書コード管理委員会発足。 > PS、先回に『週刊新潮』の創刊に触れましたが、その仕掛け人齋藤十一氏について、佐野眞一氏が『中央公論』3月号に「斉藤十一氏逝く」と題して書かれておられます。年表だけでは血の通った歴史はイメージしにくく、ご一読頂ければ、出版人の一面が感じられイメージ出来ると思います。なお、中公の編集長は元婦人公論の編集長河野氏です。 |
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2/6 |
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1/26 幻に終わった出版流通センター構想 |
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| 1月22日
1/22 雑誌の同一地区同時発売を書店組合が提案。 |
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| 1月16日 1/16 45年前に書籍の定価は2種類あった時期があった。 昭和27年(1952年)1/16普通定価と5%増しの地方定価の二重価格になった。 事の発端は、昭和26年8/22、戦後5回目の国鉄運賃値上げ(雑誌特運33.3%書籍32%)を発表。 業界上げて国鉄と運輸大臣に請願するが、昭和26年11/1から実施と決定。 この大幅値上げにより、地方書店の経営が圧迫されると危機感がつのり、対策として、出版取次懇話会(現、取協)と日本出版物小売業組合全国連合会(現、日書連)が連盟で1500出版社に要請。 同年3月ころには80%の出版社が対応し、普通定価と5%増しの地方定価の二重価格の混在となった。 高速道路網とトラック運送会社が中心になるまでの出版物輸送は、鉄道輸送が中心だった。 大阪でも、55年ごろには最寄りの国鉄駅まで自転車で木箱に入った本を受取りに行った記憶が在る。 書籍運賃は距離制、雑誌は特別運賃で低額一律だった。現在でも首都圏中京圏関西圏以外の地域は返品運賃は書店持ちとなっているのは、その名残だろうか? 欧米ではBook(書籍)の送品返品運賃は書店持ちが多い。ただ、流通システムや本の価格、書店マージンが日本とは違っているので、一概に比較は出来ないが。 現在は地方価格との二重価格ではないから廃止されたと判るようだろうが、二重価格は買う人に不安感を抱かせ不評であったことも有り、昭和29年までに暫定的に廃止されていく。しかし運賃が地方書店の経営を圧迫し、ひいては出版物の流通量は伸び悩む不安は依然解消されていない。 そこで、昭和34年6/22、定価の1%を販売原価に含む(出版者負担か定価アップで)運賃込みの新正味体系(「全国均一書籍運賃込み正味制」を書協と取協で合意)で決着がつき、運賃問題は歴史の表面から引き下がり、書店正味闘争、いわゆるブック戦争の複線になる?。 「出版流通マージンの変遷史」は出版流通史の中でもドラマティックな出版流通人の姿を浮き彫りにしてくれるて、今の出版人に様々なことを教えてくれるンじゃないかな? |
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| 1月8日 1/8 書協と日書連が返品減少対策マニュアルを作成。 1982年 昭和57年1月8日、「返品減少マニュアル」が書協会員出版社に配付さる。 昭和56年の秋から、書協と日書連が「出版社・取次会社のための書籍返品減少対策マニュアル」をまとめ、翌57年の今日、出版社に配付された。 内容は、基本的には、返品が一定水準を超える出版社には、取次との改善協議をする事、出版社は取次搬入で終わりと考えず販売の末端で効率販売が果たしうるよう責任アル促進活動をする事、取次会社は出版社に責任を転化することなく仕入れた以上責任の一端を果たすこと、などとなっている。(書店の責任は出て来ないことに注目。) 返品制度が昭和始めに定着するや、返品減少問題は業界発展の必要悪としてつきまとい、対策試論が考案提言されてきています。戦後では、昭和36年以来、出版社、取次、書店の有志が返品対策、販売対策の試論創りに取り組んでいます。 日書連も昨年の「21世紀書店ビジョン」でも、責任販売制と言う名称で提案されていますし、今も問題は解決されていないわけだから結局は上手く行かなかったようです。 この返品制度はリスク負担に耐えうる努力と信念、そして、それらを裏付けてくれるマージン体系が不可欠になりますから、「マニュアル」のようにマージン率が高いと想定される出版社にだけリスクを負わせて良しとしないで、販売会社の販売姿勢の変更(配本方法の是正など)や書店の仕入の自立化など、業界三者の分化された機能と利害の調整が必要ではないでしょうか。 三者とも相応の努力と負担を勝って出る姿勢がなければ上手く進まないと思えます。その点でも、今回の日書連の責任販売制に対する具体的実施計画には注目しています。 <注1>日本書籍出版協会。略して書協。書籍を中心に出版する出版社の組合で今500社くらい加盟。全出版社数は約4500社。 <注>日本書店商業組合連合会。略して日書連。本屋さんの組合で9500書店が加盟。全書店数は約2万。 <お断り>このシリーズは、鈴木徹造『出版界365日小事典〜明治から平成まで』日本エディタースクールと紀田順一郎監修『新版 本の情報事典』出版ニュース社を核に、CD版平凡社世界大百科事典Proを始め様々な著書・資料を参考にさせていただいて、書いております。著者の方々にはこの場をお借りしまして、御礼申し上げます。 |
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| 1月6日 1/6 定価の表示騒動勃発 1971年 昭和46年1月6日、再販本部委員会が「定価は現物に表示せよ」と統一見解を出した。 かつては、奥付に価格を記載していた(証紙という、印紙の様なものも貼られ、一種の発行税的な検閲終了的な意味を持っていた)。 ところが、昭和40年代からカバーに定価表示するようになった。理由は、出版社や流通業者(販売会社〜 取次〜や再販売会社〜書店〜)のコスト高のため、返品本を美装して再出荷する場合に値上げをしたい。 しかし、奥付に定価が印刷されていれば値上げは出来ない。その点、定価を奥付ではなくカバーに表示すば値上げしやすい。 買い手、読者から見ると「安易だ!」となるが、当時の運賃や人件費の急騰はすさまじく、日本の高度経済成長を可能にさせる 個人所得の増加の波が、出版流通業界にものしかかってきたわけです。とは言うものの、買い手としてはやはり釈然としないし、 消費者の代表政府機関でもある公取委としては黙ってもおれず、この見解となったのです。 以後、昭和52年5月24日にも、公取委が奥付定価表示の指導を明示。さらに昭和53年6月19日に、公取委が業界三者を 調査し、奥付に定価表示を指示。そしてついに、昭和59年5月28日には、業界の再販売価格維持契約委員会が「定価」と表示する。 でなければ再販契約から外す、と自主基準を表明した。13年かかって一応の決着がついたことになりますか。 ただ見逃せないのは、この間に、昭和55年10月1日から新再販制度が実施され、「定価」と表示しなければ、割引販売の対象になる 非再販商品に見なされる事になった、という事情がある。ただ奥付でなく裏表紙でもカバーでも表示すればよいが。 いまでは、3年前からの再販制度弾力運用によって、定価表示も「定価」、「価格」、注釈付きの「定価」と表記方法も増えています。 週刊ポストでもムック類でもお店に陳列されている本の定価表示や奥付を、一度じっくりご覧になられては? 因に蛇足ですが、「奥付」を日本で始めたのは大岡越前守さんらしいですヨ。検閲目的だったようですね。 洋書の奥付ならぬ表付け?も一興ですヨ。 <注> このシリーズは、鈴木徹造『出版界365日小事典〜明治から平成まで』日本エディタースクールと、紀田順一郎監修『新版 本の情報事典』出版ニュース社を核に、CD版平凡社世界大百科事典Proを始め様々な著書・資料を参考にさせていただき、書いております。 著者の方々にはこの場をお借りしまして、御礼申し上げます。 (文意や解釈については小生の責に帰します) |
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| 12月20日 12/20 図書券の発行開始 昭和35年12月20日、図書券(全国共通図書券)が全国一斉に発行された。 当初業界内でバラバラに実施されて混乱気味だったのを、講談社社長野間省一氏の調停で 出版社と取次、書店合同の元に共同出資で、日本図書普及株式会社を設立、発行管理を行うことになった。 出版物の贈答分野への市場開拓を目的に、イギリスの本の引換券「ブックトークン」を参考にされた。 金種は50円券綴り(現発券中止)と100円券(現発券中止)500円券が発行される。 参考に、http://www.toshocard.comをご一覧あれ。 一方、平成2年の12月1日図書券のプリペイド版といえる図書カード(全国共通図書カード)を発券開始。 5000円3000円の書店販売カード、500円〜5000円の5種類の広告カードがある。 平成7年10月には10000円のカード(正倉院宝物シリーズ)も発行。 今年はカード10周年の記念キャンペーンを行っている。 日本図書普及株式会社では毎月「図書券だより」や「図書カードプレス」で販売広報活動を行っている。 「図書券だより」172号(12/24発行)では仕入チェックリストや図書券・カードの変動在庫指標、 図書券詐欺の手口とその対策、などが示されていて、参考になる。 図書券の流通は、図書普及→販売会社(取次)→扱い書店と流れ、扱い書店の扱い手数料は5%(仕入正味が 95とも考えられるが、取次の手数料率や図書普及のマージン率は不明)。 本を購入された使用済み図書券は現金と同じように扱われて、扱い書店→販売会社(取次)→図書普及と支払われていく。 書店は額面の95%で取次入帳の形をとっている。 したがって図書券販売と受け取り図書券の合計金額の差の5%あたりの損益になる。 だから利益の問題ではなく、「図書」=高級=贈り物に最適、「図書普及」が主眼となっている。 ここまで書いてきてふと疑問に思ったこと。 1、イギリス以外の外国で図書券あるんだろうか? 2、図書券やカードの売れ方や金種別発行枚数の年度別変化&売り方は? 3、発券分のなん%が使われないで私蔵されているのだろうか? この辺の事、誰か教えていただけません? このまえ書店同士の勉強会で出た話題で、定番商品の販売データを如何に適性仕入に活用するか?ということで、 図書券の管理が上がった。少ないアイテムで、何年も変わらず販売できるし、売れ方も月別に販売数を見ると同じような売れ方をしている。 このようなデータ管理しやすい商品は本屋では珍しい。販売データの取り方やデータに基づく仕入管理など、商品管理の勉強にすこぶる単純で判り安い。 拡売イベントも前述の「図書券だより」を参考にすれば、従業員教育用のマニュアルを作成していないお店でも簡単にできるので、 若葉マーク書店人への教育にお勧め。 |
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| 12月12日 「書店の窮状と正味闘争〜永遠の課題?」 昭和36年(1961年)12/12、雑誌正味を1分(1%)引下げ交渉を東京書店組合が開始。 日本出版物小売業組合全国連合会(今の日書連;日本書店商業組合連合会)は『主婦の友』の不買を宣言した。 結果、『主婦の友37年新年号』から1分下げで合意し不売は避けられた。 これらの正味引下げ運動には、翌3月に公表される『書店経営白書』の意識があった。 5月には適正利潤獲得全国書店総決起大会に発展し、昭和47年(1972)のブック戦争に繋がっていく。 『書店経営白書』について小田光男史は『出版社と書店はいかに消えていくか』でこう述べられている。(『小売全連20年史』からの引用紹介して) 小売全連加盟書店は7916店で東京は13.1%(全連の組織率は不明)東京の平均的な書店像は、法人60%個人40%で10〜15坪。 朝8時から夜10時までの14時間営業で月商50〜100万、平均仕入れ正味は82、店売60外売40、商品回転率は4.6回、経費率は18.2%。 えっ?仕入れが82ということは粗利益率は18でしょ?それで経費率が18.2なら0.2%赤字じゃんか。 白書は続けて主張する。 纏めると、 1、委託制は売れ残りを返品できるが、取次の無計画な過剰送品の為、返品整理に作業時間を取られている。 2、定価制は書店の意志とは無関係に生産者によって一方的に決められるが、最終販売業者間では自由競争ゆえ 価格競争は避けられずそのしわ寄せが書店に来ている。 (定価販売が再販制度で建前だが、学校や公官庁は割引を公然と要求している。昔も今もお上は変わらんね。) 3、仕入れ正味も取次が一方的に決め、自分の手腕で儲けの幅を決められない消極的な立場にあり、配給業者的性格を持っている。 今と何にも変わってないジャンか。30年も前の書店の実態だよ。いや違うところが一つ感じられる。 書店の自立心がオオセイで、商売の環境を変えていこうとしていた点で、この気持ちというか、精神が学び取りたいものです。 では、ここでクイズ・タイム。 1、今の書店の実態は? 2、書店実態の公表資料は? 3、書店実態の自店活用の目的と方法は? 折しも、日書連は21世紀の書店像模索の為か、『日書連55年史』の編纂を開始したが、一刻も早く拝読したい。 日書連の機関誌でもある全国書店新聞に部分的にでも掲載し、戦後書店史を公にしつつ広く議論の輪を巻き起こして欲しい。 歴史という「情報の宝庫」から学び、未来の書店をイメージし、日々の仕事をしていくために。 |
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| 12月5日・6日 |